最後の女・お元と静かな余生を送りたい
間取りの万三はーーー
”間取りの万三”の本業は、腕の良い大工。労咳もちで、余命いくばくもない。やはり同じ病気をもつお元を最後の女と思い定め、ふたりで静かに余生を送ろうと決意した。そのためには金が要る。そう思い込んだ万三は、かつて自分が引いた、盗賊たちの間で半ば伝説となっている”幻の間取図”を高く売ろうと、己斐(こひ)の文助を通じて鈴鹿の弥平次と会う。ところが、本格だった鈴鹿一味は、三代目・弥平次の代ですっかり兇賊に変わっていた。弥平次は間取図を奪い取ろうとたくらんでーーー。
江戸時代に恐れられた不治の病
江戸の人々を苦しめた労咳
本作の万三をお元が思っている「労咳」とは、肺結核のこと。結核菌に肺が感染して発症するこの病気は、昭和18年(1943)に抗生物質ストレプトマイシンが発見されるまで効果的な治療法がなく、死の病として恐れられていた。
例えば三浦浄心は「慶長見聞集」(1615年)に、「労療(ろうさい)(労咳のこと)がはやっているが、治すことは難しい」という意味のことを書いている。
また、幕末に長崎を訪れたオランダ人軍医ポンペの見聞記には「日本には肺結核や気管支を病んでいる人が多い」と記されているから、病魔は江戸だけでなく、日本全国に広がっていたようだ。
結核は感染力が非常に強く、当時の医療技術では防ぎようがなかった。本作のお元も「父親からうつされた」と述懐しているように、江戸時代に身内がひとり結核を患うと、家族皆に伝染し、次々と命を落してしまった。当時、結核は「伝尸(でんし)」とも呼ばれたが、”尸”は屍(しかばね)の意味。結核が伝染して人が次々に死んでいくようすからこの名が付いたのだろう。江戸時代の人たちが、結核をいかに恐れていたかがわかる。
また、現代ほど医学が発達していなかった江戸時代に恐れられたものに、労咳の他にコレラや疱瘡(天然痘)、赤痢などの疫病もあった。
特に九州に上陸したコレラ菌は、安政5年(1858)に大流行し、俗に”3日ころり”といわれたほどで、たくさんの人が短期間のうちに亡くなってしまった。
治癒は神仏頼み
こうした疫病の多くは、特効薬や対処法の発見とともに終焉を迎えるが、当時は原因も治療もわからない謎の病。それ故、俗信や迷信も多かった。
例えば、先述の「慶長見聞集」には、結核は”心の病”と指摘されているし、他に、過度な性交渉や、逆に性的欲求不満が結核を誘発するともいわれ、諸説紛々だった。
治療については、養生するぐらいしか手立てはなく、あとはひたすら神仏に救いを求めた。なかでも有名だったのが、東京都文京区に現存する「伝通院(でんつういん)」。境内には結核を苦に心中した男女が葬られたという夫婦塚があり、この夫婦塚に祈ると結核が治ると信じられていたとか。
神仏のご加護がどれだけあったかは知るよしもないが、万三、お元の余命がいくばくもないことを察知していたからこそ、平蔵も温情をかけたに違いない。
ー鬼平犯科帳DVDコレクション 39ー
原作を読む!
鬼平犯科帳5巻 第1話「深川・千鳥橋」
仲間からの信頼もあつい
大滝の五郎蔵の密偵デビュー
ドラマのおまさと相模の彦十に代わって、原作で万三の動向や鈴鹿の弥平次を見張るのは大滝の五郎蔵だ。原作では、これが五郎蔵の記念すべき密偵デビュー戦。
盗賊の頭目だった五郎蔵は、平蔵のはからいにより一度破牢。変装や追跡など、苦労しながら張り込みに初挑戦する。結果、火付盗賊改方は鈴鹿の弥平次一味の捕縛に成功した。
なお、万三を思うあまり、お元が万三のことを平蔵に訴え出るのはドラマのオリジナル。原作のお元は、万三がどのように金策しているかを知らなかったようだ。