前より続き
つまり、私という人間は記憶が作りだしているのだといえる。
ただし、
同じ記憶を持った人たちでもまったく違う判断を下すケースがある。
たとえば、小さい頃、親に虐待を受けた少年が2人いたとする。
A君は、「俺にはトラウマがあるから、
何をやるにしてもブレーキがかかるんだ」と言って仕事にも身が入らず、
のらりくらりとニート生活をしている。
A君は自分のトラウマを言い訳にして人生を怠けてばかりいるのだ。
一方、B君は、
「そうか、僕には親から虐待を受けている子どもたちを守るという使命があるんだ」と
ボランティア活動に積極的に取り組むようになる。
熱心に働くB君は周囲から尊敬され慕われるようになるだろう。
このA君とB君は、何が違うのだろうか。
親から虐待を受けたという幼児体験は同じだ。
むしろ程度はB君のほうがひどかったかもしれない。
虐待の度合いの問題ではないのだ。
虐待の種類の問題だろうか?
父親から虐待を受けたものと、
母親から受けたものとでは将来の影響が違うのだろうか。
殴られたことと、
ネグレクトされたこととの違いがA君とB君のような違いを生むのか。
もちろん、影響度は微妙に違うだろう。
しかし、本質的には、そんなことはほとんど関係ないのだ。
虐待を受けた期間の長さの問題か?
幼稚園児のときから小学6年生まで10年近く虐待を受けた人と、
約1年間受けたと人とでは影響度が異なるというのか。
そんなことはまったく関係ないのだ。
大事なのは、
本人がその体験から何を学んだかである。
親の虐待から
「やられたらやり返すべきだ」ということを学んだ人は、
自分よりも立場の弱い人間を見つけては虐待するだろう。
一方、「自分のような不幸な子どもを救うんだ」ということを学んだ人は
ボランティア活動に取り組むだろう。
人を不幸にすることを学んだ人は、自分も不幸になる。
人を幸せにすることを学んだ人は幸せを得る。
人を幸せにすることは、つまり、愛するということだ。
内なる魂には膨大な記憶が保存されている。
3000年も昔の過去生の記憶も、
胎児のときの記憶もすべて蓄積されている。
続く