いらっしゃいませー♪
31年間のサンフランシスコ・ベイエリアでの暮らしを卒業。
岐阜に戻り年金生活ををスタートいたしました竜桃ママです。
この記事ではブログを始める前の思い出のエピソードをまとめています。
この記事は2度目のオーストラリアとなりました1983年のお話になります。
最初のオーストラリア行で、次回はキャンピング・ツアーと考えていた私。
まずニュージーランドで体験し、、
ニュージーランドでは、結局コテージで泊まり続けるというソフトなキャンピング。
私の考えていたものとはちょっと違ってました。
今のように、リストやレヴューなどのなかった時代ですので仕方ないですね。
今回の旅行のメイン・テーマは「エアーズ・ロック」
実は私たち、「エアーズ・ロック」というバンド名で演奏していたことがあります。
この時はお気に入りのシンガポール航空ではなくタイ航空。
タイ航空はその当時、IATAという航空会社の国際航空運航協会(まだあるのか?)に参加しておらず
自由価格で安価だったためです。
1983年8月3日
大阪空港から出発です。
ところがタイでの乗り継ぎで待っても、待っても出発案内がありません。
「Delay」から「Cancel」になるのに5時間ほどかかったと思います。
この日本人は事の次第を把握できないかもと思われたらしく、、、事実わかってなかったし(笑)
機体に部品交換が必要であるということ、部品が届くのは明日であるということ。
周りの人たちが気にして説明してくれました。
全員のパスポートが回収され、バスに乗って空港近くのホテルまで搬送されました。
思いがけずのタイ一泊です。
ホテルは4つ星で豪華な夕食がふるまわれました。
フライトは翌日、しかも夕刻に出たため
シドニー到着は深夜になりました。
予定ではシドニーに到着後、グレイハウンドバスに乗ってメルボルンまで。
メルボルンではオーストラリア一周ツアーのキャンピング・バスに拾ってもらって
アリススプリングスまで10日間合流するというものでした。
1日半ずれちゃった到着。
これどうやってキャッチアップすればよいの?
メルボルンの次はアリススプリングスでの合流しかできないので
エアーズ・ロックへはもう終わってます。
出発がスタンバイのため席に着いたままタイで半日以上。
何時にシドニーに着くかわからず計画が立ちません。
もちろん、まだまだネットの世界ではありません。
携帯もポケベルもありません。
機内では昨日親切にしてくれた周りのオーストラリア人たちが
いろいろと手を考えてくれます。
とにかく、シドニーに着いたらすぐにメルボルン行に乗ること。
こういう状況になったのだからメルボルン行は無料で交渉すること。
その旨を入国時に伝えるため、何人かが私のために文章を書いてくれてました。
フライト・スケジュールなどもシドニーに着かなきゃわからない時代です。
シドニー空港では親しくなった5人くらいのグループが一緒にイミグレに入ってくれました。
夜中でしたのでもうメルボルン行はありません。
イミグレ検査官が、たまたまいたJALのパイロットを呼んでくれました。
そのパイロットが、その場で朝一番のメルボルン行を抑えてくれて解決です♪
やっぱJALは信頼できるね。
空港では泊まれないとのことでひとまず深夜のシドニーへ。
一緒に乗っていた人が同じホテルの部屋を分けてくれてタダで泊まることもできました。
3時間も眠らず空港に戻り、無事メルボルン行に。
本当に皆様のご厚意とチームワークのお陰です♪
メルボルンでは
バスがピックアップ待合場所、どこやらの教会前へ直行。
時間的にもギリギリ、セーフ!
実はこの旅、
前回のニュージーランドで出会った大阪の女教員、前田さんとも合流予定でした。
待ち合わせ先は前の晩、メルボルンのユースホステル。
私が来ないので少しは心細かった?と思いますが
とにかく無事に出会えました♪
前田さんがユースホステルでおにぎりを作ってくれていて
教会のベンチで最高の朝ごはん♪
そう、何も食べれずお腹ペコペコだったのだ!
不測の事態勃発!
そんな2度目のオーストラリアの旅の始まりでした。