「賢人とても落ち度はあり、愚か者とてもとりえはある」

 野洲市の病院、駅前開発、そして最近話題にした総合計画の検討のための審議会等には、学識経験者が加わっている。病院の審議会では、5名も入っている。

 このように、審議会等に学識経験者の協力を求めることは野洲市に限ったことでなく、他の自治体や国でも同様。社会が複雑化、専門化するなかで先を見越した的確な政策づくりのためには専門家の協力は欠かせない。

 いや、現代にはじまったことではなく、昔からいわゆる為政者は専門的な知識や能力を持った助言者やブレーンを抱えていた。先日から読みかけた本で「賢人とても落ち度はあり、愚か者とてもとりえはある」という言葉に出会った。これは中国の古典で、今から2100年以上前、前漢の武帝時代に編纂(へんさん)された「淮南子(えなんじ)」にあるもの。この書を編纂した淮南王劉安(わいなんおう りゅうあん)は数千人の食客(しょっかく)、すわちブレーンを抱えていたという。なかには任侠や無頼の徒もいたようではあるが。

 なお、よく知られている「人間(じんかん)万事塞翁(さいおう)が馬」は「淮南子」が出典。

 

野洲市の審議会等の学識経験者への疑問

 「愚か者」という言葉は今では不適切だが、この「賢人とても落ち度はあり、愚か者とてもとりえはある」という言葉で思い至ったことは、以前から気になっていた野洲市の審議会等の学識経験者のこと。

 体育館病院の方向性を決定づけた昨年(令和4年)11月14日の病院評価委員会では専門的な議論をしないで委員長は市の案を異論なしとして認めた。

 また、今年5月26日の駅前商業開発の検討会でのアンケートや「委員からは『市内に少なく、ニーズがある』として、宿泊施設の整備を推す声が複数あった。」(毎日新聞2023年3月27日)などの議論からは、学識経験者が入っていることによる専門的な議論がされたとは思えない。

 そして極めつけは、総合計画の審議会。詳しくは繰り返さないが、あのような少人数の委員構成で市の最上位計画の大幅な見直しを諮問されたことに疑問も抱かず、審議を進めている。このことは専門性以前の話ではあるが、会長である学識経験者の専門分野は行政学。会長の専門分野なのだから、今回の審議の異常さに気づくべきではないか?本当にこのまま市長からの諮問案を認めるのか?

 

 

学識経験者の限界と弊害に市民は気づく必要がある 大きな被害を被る恐れあり

 このように見てくると、審議会等における学識経験者の参加が、少なくとも最近の野洲市の場合は形骸化・劣化しているのではないかと思われる。

 問題点を簡単に整理すると次のとおり。

 ①課題に対応した専門家が選ばれていないのではないか?いわゆるマッチング(適合)していない。

 このことの分かりやすい例としては、駅前商業開発の検討会の学識経験者2人の専門はいずれも建築で、商業やマーケティング分野の専門家が入ってないことがあげられる。

 ②専門家は市から頼まれて社会貢献のつもりで協力しているが、審議会等の位置づけや重要さ、それに伴う責任の重大さに十分気づいていないのではないか?

 このことについては、課題と問題が多く、詰めの甘い市の体育館病院計画案にお墨付きを与えた評価委員会(現審議会)と新都市拠点の追加と土地利用構想の変更を伴う重大な計画変更をお気軽に議論している審議会が例としてあげられる。

 以上のような審議会における学識経験者の状況は栢木市長にとっては都合が良いかもしれないが、市民と市の将来にとっては大きなマイナスになる。また、昨年度評価委員会の建築の専門家委員の問題事例にあったように、最終的には個々の委員の専門分野と社会における評価に大きな被害が及ぶ恐れもある。

 要するに、市民は審議会等に偉い先生たちが入っているから大丈夫と安心するのではなく、学識経験者の限界と弊害に気づく必要がある。そうしないと大きな被害を被る恐れがある。