市職員募集 これまでどおり応募者はあるか?

 市広報紙8月1日号の最初のページ半分を使って「令和5年4月1日採用市職員募集!」の記事がありました。募集は、記事の大きさの割には、保健師2人程度と司書1人程度。

 もっと数の多い、他の職種の募集は先にあって、ネットで広報紙を振り返ると、6月1日号に掲載。記事には締め切り日の記載がないが、試験日時が7月10日となっているので、少なくとも1次試験はとっくに終わっている。

 この記事を見て心配になったことは、これまでどおり応募者はあるのかということ。

市は選んでいるつもりで、実は選ばれている! フラッグがはためいているか? 

 そこで思い出したのが、2年近く前に「職員採用試験の面接 どちらが選ぶ側か選ばれる側か」と題して書いたブログ。その内容は、大よそ次のようなこと。

 職員採用試験で市は応募者を選んでいるつもりでいるが、実は逆であって、市が選ばれている。そして、市が選ばれるためには、市と市役所組織に魅力が必要。

 応募者にしてみれば給与などの処遇も重要であるが、市の可能性と職場の魅力も合わせて重要。良好な人間関係を含め職場環境の快適性とそこで自分が成長し、自己実現ができるかが、就職先を選ぶ基準になる。したがって、市の業務や事業の結果、市の魅力が発信できているかが問われる。たとえれば、明るい展望を示すフラッグ(旗)があがり、はためいていることが重要。

「泥船から逃れた。」 記者会見て、この市長にはついて行けないと思った

 すでに1次試験が終わった募集の応募状況がどうだっか分からない。とは言っても、4月に、「『泥船から逃れた。』市民も同じ泥船にだが、脱出とはいかない!」と題して書いた市の状況からすると、かなり厳しかったのではないか。

 「泥船から逃れた。」という言葉は、ある時期から野洲市役所の若手職員の間で交わされていたもの。その意味するところは、市と市役所に明るい展望がないと見限って辞めていった若手職員が何人かいる。自らもそれを望みながらも、諸事情でそれができない職員が羨ましがって発している言葉。

 この言葉を紹介したのは今年の4月になってからですが、耳にしたのは3月。その後市長のパワハラ事件が起こり、何度も全国ニュースになった。なかでも、7月6日の市長の1時間に及ぶパワハラ臨時記者会見をYouTubeで多くの職員が見、この市長にはついて行けないと思ったという話を当時耳にした。事態は深刻の度を増している。

「泥船」状況は悪化 市組織の継続性が危なくなる 市民サービスの質と量の低下に 

 言うまでもなく、市の業務は機械を使う製造業と違って、すべてが職員の「人間的な」働きによって支えられている。当然、個々の職員の士気と能力が重要であり、それをもっての職員の働きによって、事務・事業が進められる。そして、職員の方では、そのことによって自分の成長と達成感を実感できなければならない。

 日常的にこのような状況が維持されるためには、良好な職場環境が必要。その要件は様々あるが、いくつかあげれば、風通しの良さ、言い換えれば、職員間での情報の共有化と職務の遵法性・合理性・効率性が確保されること。

 言うまでもなく、病院問題の二転三転や議会や記者会見などでの市長のはぐらかしや回答拒否は、以上の要件には逆作用。そこにパワハラ問題が追い打ちをかけた。「泥船」状況は改善どころか、悪化している。

 よほど本気になって梃入れをしない限り、市役所組織の継続性が危なくなる。もちろんそのツケは、市民サービスの質、場合によっては量の低下となって現れてくる。