選挙は代表制民主主義には欠かせない基礎的な制度

 昨日7月27日、野洲市議会が世間の常識が通用しない状況の心配について書きました。それを書いた後、なぜそのようになるのか思いめぐらしていましたが、考えはまとまらなかった。

 今朝になって思い至ったこと。もちろん結論ではないが、それは選挙。代表制民主主義には欠かせない基礎的な制度。また、選挙で選ばれた代表も、実質的には選挙と同じ原則の多数決で議案等を決める。

選挙で受けた支援への配慮が働けば、政治家の判断をゆがめる

 選挙において候補者は自分の主義主張や政策を訴えるが、それだけでは足らない。どうしても、支援・応援者の期待や要望に配慮する。そこまでは政治の力学として当然。

 しかし、当選してからも、「すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。」と憲法(15条2項)で定まっていても、支援を受けた人たちへの配慮が働く。ましてや次の選挙のことを考えるとなおさら配慮が働く。そこには、当選しなければ市民・国民のために働けないという言い訳が潜んでいる。

 以上述べたことは一般論であって、すべての政治家がそうであるわけではない。しかし、このような、選挙で受けた支援への配慮が働けば、当然政治家の判断をゆがめる。たとえば、ある政策に関して、現状や課題を客観的に把握して、議論し判断する必要がある場合でも、支援者への配慮が判断に影響することが考えられる。

 このような政治家が全くいないかといえば、そうでないことは、これまでの政治家がらみの事件で明らか。

 議会において世間の常識からすれば通用しないような議論や議決が行われる原因が以上述べたことにすべて原因があるとは言えない。しかし、不可解な事態を理解するための参考になるのではないか?

市長変われば政策変更は可能だが正当な手続きと審議が必要 今は制度と手続き無視した独断専行

 ところで、先日、匿名誹謗中傷SNS拡散と同じではないかと紹介した体育館病院の「市民懇談会」記録が市ホームページに公開されたままになっています。

 このなかで興味深い意見が交わされている。ひとつは、選挙の結果民意を受けて市長が変わったのであれば何でもどんどん変えていけば良いという意見。このような意見は栢木市長の支援者と思われる参加者に多い。

 もうひとつは、選挙で市長や議員が変われば、その都度病院の方針が変わり、いつまで経っても病院ができないと心配する意見。常識的でもっともな意見。

 後者の意見のようなことにならないために、民主主義制度に基づき市民代表による議会で議決が重ねられてきている。病院の場合は、条例で駅前Aブロックに整備することが定められていて、議決された予算によって設計の最終段階に至っていた。それを栢木市長が、条例をそのままにして、独断で設計を止めたうえ、現地半額建て替え検討やBブロック病院案を進め、今また体育館病院案を掲げている。

 もちろん、市長が変われば政策変更は可能。しかし、そのためには正当な手続きが必要。その手続きのなかには、単なる多数決でなく、客観的なデータや合理的な議論(審議)が含まれる。

 今、野洲市議会で行われていることは、このようなことではない。制度と手続きを無視した強引な独断専行。

「公明府議団は反対『議会の可決、重い』」 所変われば方針違うでは政治への信頼が足元から崩れる

 このようなことを思っていたところ、「大阪IR問う住民投票、公明府議団は反対 『議会の可決、重い』」(毎日新聞2022年7月27日)という見出しの記事が目にとまりました。記事の概要は次のとおり。

 「カジノを含む統合型リゾート(IR)の大阪府・市による誘致の賛否を問う住民投票について、府議会第2会派の公明党府議団(15人)は27日の会合で、住民の直接請求に基づく条例案に反対すると決めた。府議会で3月にIRの区域整備計画が可決したことから、『議会での議決は非常に重い』としている。」(毎日新聞2022年7月27日) 記事を読む限りは、それなりに筋が通っている。

 しかし、野洲市の公明党は、残念ながらこのようには筋が通っていない。

 6月28日の市議会採決では、病院の場所を現市立病院に変更するという、実質的に新病院の展望を消すことになる条例変更議案に賛成した。

 公明党は過去においては、党として病院条例の成立に賛成しておきながら、今回は何の議論も討論も行わないで、無言のまま栢木「市長与党会派」に同調して賛成した。なお、採決の結果は、「市長与党会派」の稲垣議員が「市民が納得」を条件に反対に回ったので否決された。あえて言えば、この28日の否決結果も重い。

 全国政党であっても、所変わればこれほど方針が違うのか?これでは政治への信頼が足元から一層崩れていく。少なくとも筋が通ることが期待される。