1947までは、家棟川は今の総合体育館横付近で童子川に合流

 総合体育館横を流れている中ノ池川は童子川に合流。童子川そこから約2㎞下流で家棟川合流し琵琶湖に流入することを昨日紹介しました。

 ところが、昨日は触れませんでしたが、1947(昭和22)年までは、家棟川は今の総合体育館横付近で童子川に合流していました。

 今日7月20日は、長く続いた雨がちな天気が開けて久しぶりの夏空。ということで、旧家棟川の川筋を自転車で辿ってきました。

 家棟川の源流は希望が文化公園の奥。そこから辻ダムを経て国道8号と交差するあたりまではほぼ昔の河道。河川改修されて整備されましたが、国道から上流を望むと雑木でほとんど河道が見えない状態。

 ここから少し下流の旧中仙道と交わるあたりで、現在の新家棟川は北に向かって流れています。そして旧家棟川は西向きに流れていた。

 国土地理院の地図におおよその旧の流路を示していきます。

 

旧中仙道の隧道は大正6年の大正天皇陸軍大演習の行幸時の突貫工事

 旧家棟川と旧中仙道が交差していたところには、かつて隧道があった。旧家棟川が天井川だったためです。隧道は、後で触れる朝鮮人街道と東海道本線との交差するところ、合わせて3つありました。

 この旧中仙道の隧道は、川が付け変わった後も長く残っていて、撤去されたのは、2006(平成18)年9月。市の案内板の写真を添付しておきます。思いなしか、大正ロマンの趣のある石造遺産でした。

 案内板によると、この隧道は、「大正6年(1917年)の大正天皇陸軍大演習の行幸にあたり、「天井川」の下に突貫工事でトンネルが掘られました。そのトンネルは『家棟隧道』と名付けられました。」となっている。それまでは、「ここを通行する人々や馬車は堤防に上がり大変な苦労をしながら川を渡っていました。」

 1917(大正6)年の大正天皇陸軍大演習は以前、国立国会図書館デジタル・アーカイブの『大正六年陸軍特別大演習滋賀県記録 』を引用して紹介した11月14日の演習。この時は、11月13日から16日までの4日間行われ、4個師団、2歩兵部隊、飛行隊合わせて兵員4万1516人、馬4560頭の実践さながらの大規模なもで、大正天皇は13日から18日の間彦根に滞在されたことになっています。

 

旧家棟川の河道と堤防敷は今は道路と住宅地

 旧家棟川の河道と堤防敷は今は道路と住宅地になっています。ただし、道はJRの線路のところで道は途切れています。

 旧家棟川と朝鮮人街道の交差するところにも昔は隧道がありました。場所は今の祇王駐在所前の交差点。

 コミュニティセンター「ぎおう」の敷地内に「義王隧道銘板」が残されています。その案内文は次のとおり。

 「祇王学区の真ん中を辻ダムから童子川までの約3 km の間流れていた家棟川は、天井川であったため中仙道 、JR 朝鮮人街道三ヶ所に隧道(トンネル)を作りました。朝鮮人街道の隧道は今の祇王駐在所前に明治26年3月に完成しました。それ以来『祇王のマンボ』といって長い間多くの人々に親しまれてきましたが、昭和16年6月28日梅雨末期の大雨で三ヶ所(永原一ヶ所、上永原二ヶ所)が決壊したため、河川改修で新家棟川が完成したことから昭和22年頃取り壊されました。この銘板は隧道が造られた当時のものです。」

 

 

家棟川付け替え改修工事は滋賀県の歴史的な大土木事業

 この時の豪雨は歴史豪雨であったようで、「滋賀県土木百年表」(滋賀県昭和48年1月1日発行)によると次のとおり。

 1941(昭和16)年6月28日梅雨末期の大雨で家棟川が決壊。この時の雨は、6月25日から29日まで県内で豪雨が続いた。時間雨量40㎜を突破とされている。家棟川流域の被害が最大であった。

 翌1942(昭和17)に滋賀県河川改修事務所が新設され、家棟川災害助成工事に着手。これは災害助成工事の最初であると注記されている。施工区間旧兵主村野田、比留田、祇王村上屋、辻町。延長8200m。工費82万7000円。竣功昭和22年3月となっていて、戦中から戦後にかけての滋賀県の歴史的な大土木事業。

 

旧家棟川は体育館横付近で童子川に合流 基本的に水が集まってくる地形

 祇王駐在所前の交差点から下流も同じように道路と住宅地になっていて、最後は、体育館横付近で中ノ池川と一体になって童子川に合流していた。

 このように辿ってくると、この体育館付近は基本的には水が集まってくる地形。

 帰りは、中ノ池川の堤防を辿って戻ってきました。東込田川の合流点、そしてその少し上流の落差工。ここは市民団体のビワマスの遡上プロジェクトのフィールド。この落差工で川の流量が大きく絞られている。