5年前にも駅前病院を望む活動が大きく盛りあがる

 駅前Aブロック病院の実現に取り組んでいる市民活動。先週、市長と議長に対して駅前Aブロックへの市民病院整備を要望する約4500筆の署名を手渡したときの新聞報道を紹介しました。この活動を見ていて、思い浮かんだ言葉が、「自から信ずる所の大道を踏むの一策のみ。」ひと月半ほど前に紹介した、近江の天保一揆、その義民の指導者であった土川平兵衛(つちかわ へいべえ)の思いを述べた言葉。

 かつて市議会で駅前の病院整備の賛否が拮抗し出し、病院整備の見通しが怪しくなった頃には、駅前病院を望む活動が大きく盛り上がり広がっていました。市民団体に加え、医師会や社会福祉協議会なども力を合わせていた。今から5年ほど前の2015年から2016頃。しかし、4年前の市議選で、駅前病院に賛成する議員が安定過半数を占めるようになったので、そこから表立った動きはなかった。というより、流れは逆であって、その活動の盛り上がりと広がりによって、議員の構成が大きく変わって今日に至った。

動きは市長の現地半額建て替え公約破綻から 義民が連想されるように、大義があるので強い

 ところが、昨年秋、栢木市長が現地半額建て替えを看板公約と掲げて当選。それでも、市民の間にはしばらくは、何の動きもありませんでした。しかし、今年3月半ば市長が公約を断念し、その破綻が明らかになった。市民の常識的な判断からすれば、元の駅前計画に戻ると思って当然。しかし、栢木市長は元に戻すどころか、病院がまともに建ちそうにない3候補地をあげて独断で動き出した。このあたりから、今回の市民活動は新しい動きとして立ち上がった。

 活動は、今年の4月の集会の開催からはじまり、ビラの作成と配布、シンポジウムの開催、酷暑や悪天候にもめげないでの街宣活動と署名集めなど、短い間に広がってきました。この活動は、抵抗型の市民活動でなく、積極的で建設的活動。いわゆる手作りで手弁当の活動であっても、自然に天保義民のことが連想されるように、明確な大義があるので強い。

 むしろ、市長の動きの方が、その根っこが「駅前病院反対」であり、抵抗型で非建設的。栢木市長も市民運動に支えられて出てきたことになっているが、それは「駅前病院反対」の活動でした。ただし、顔が見えない活動で、名前が明らかになっていたのも、代表者の数人だけ。

必成の算、必勝の望みあるを確認せずんば事に従わずの論は当たらず

 ところで、土川平兵衛の言葉をもう少し引用しておきます。「人生の事、何ぞ極まらん。苟(いやし)くも必成の算、必勝の望みあるを確認せずんば事に従わずの論は当たらず。自から信ずる所の大道を踏むの一策のみ。(略)是(これ)いささか国家に尽くす所なり。」これは、天保義民150年顕彰事業として1992(平成4)年に発刊された、『夜明けへの狼煙 近江国天保義民誌』からの引用。著者は、三上の故大谷雅彦氏です。あえて意訳すれば、世に不正義があれば、それを正す取り組みが成功するかどうか見極めるまでもなく、正しい信念を貫いて、行動しなければならない。それが、人々の幸せのため社会のためである。

 あらためて土川平兵衛のことを紹介しておきます。三上村の庄屋で、1842(天保13)年10月の天保一揆の指導者。時の幕府が田地を図る尺(物差し)を短くして石高を多く見せかけるという不当な検地を行うなど、過酷な年貢取り立てに対して、野洲川筋の庄屋たちに呼びかけて身を挺して立ち上がりました。その大義は、単に過酷な年貢取り立てによって生活が苦しくなるということだけでなく、このような不正義がまかり通れば、世(社会)が持たないという強い思いがあったから。まさに、義民たる所以です。一揆は当初の目的を達しましたが、今と違う時代状況のなかで、土川平兵衛たち指導者は江戸送りとなり、多くは過酷な拷問で獄死しています。時代は、大塩平八郎の乱から5年後、まさに、水野忠邦が老中として、時代劇の悪役でお馴染みの江戸南町奉行の鳥居耀蔵(とりい ようぞう)などを配下にして天保の改革を強引に推し進めていたさなか。

 平兵衛が石部宿で家族はじめ見送りの人に向けて詠んだ惜別の歌を上記の本から引用しておきます。また、像の写真も30年前のもので今よりきれいなので、同書のを添付しておきます。

 「人のため 身は罪咎(つみとが)に 近江路を 別れて急ぐ 死出の旅立ち」