駅前Aブロックへの市民病院整備を要望する4427筆の署名を市長と議長に手渡し

 今朝の新聞に市民病院の整備についての要望署名を市民団体が市長と議長に手渡したことが報道されています。市の条例に定められているとおり、駅前Aブロックに市民病院を建てることを要望する4427筆の署名。「駅前新病院を実現する会」が夏の間に街頭や市内の地域で会員が協力して集めたもの。

 これを受け取った栢木市長は、Aブロックはにぎわい、Bブロックで病院を進める(中日新聞)とか、「病院整備の早期実現に向け、一定の手順を踏んで進めている」(毎日新聞)と話したことが報道されている。これまでの議会答弁などから予想はつくが、市民の人たちが自ら汗を流して集めた市民の声に対する反応としては、市長の反応は「かたい」。

署名への市長の反応は「硬い」が、市長の姿勢は転々して「堅固」でない

 ここで、市長の反応が「かたい」とひらがなで書きました。その理由は、「硬い」、「堅い」、「固い」のうち、どの字をあてるのか迷ったためです。多分、柔軟性がない状態を表す「硬い」がふさわしい。四字熟語になっている「意志堅固(いしけんご)」に使われる、あとの2字ではない。

 なぜなら、繰り返すのも嫌になりますが、現地建て替えからはじまって、3候補地。そして、3候補のなかでは狭くてダメだと自分で言っていた、そのBブロックに方針転換と、転々としてきている。このBブロックは、180床程度の病院用地としては、市民団体の代表も訴えているように「狭すぎて、市民が願っている病院はできない」(毎日新聞)。そのうえ、駐車場も十分に取れないため、議会答弁では今後の検討課題と言っている。これでは、堅固な確信と確証をもって市長が事業を進めているとは思えない。

Aブロック病院要望は単なる拘りではなく、正当な提案 議決、構想、条例が裏打ち

 ところで、栢木市長が昨年の秋に就任して10カ月余り。市民病院建設地も二転三転の結果、Bブロックとはいえ、駅前になった。市民団体とその活動に賛同する人たちも、そこまで拘らないで、そこそこで矛先を収めてはどうか。このような意見が当然出てくるし、実際にあります。拘りといえば、市議会の度重なる決議も同じ。去る6月議会の「病院整備事業の進め方に関する決議」では、「今後の病院整備構想及び計画の検討にあたっては、Aブロックを病院整備地とすること。」となっている。また、今議会でも多くの議員が同じ趣旨で質問しました。

 ということは、Aブロック病院は単なる拘りではなく、正当な提案であるのではないかということが考えられる。これについても、先の議会決議を引用するのが早い。「市民病院整備運営評価委員会での議論を引くまでもなく、病院整備において最も課題が少ない適地は、駅前 Aブロックでの整備である。病院整備をAブロックとし、にぎわい創出や駐車場整備を全体で図ることが、我々の考えるこれまでの経緯、議論を経た現段階での最善の判断である。」

 栢木市長の方針とは異なるが、市議会の過半数の議員や多くの市民が、現在もAブロック病院計画を最も適正なものと考えていることになる。ということは、今回の市民団体の要望署名は正当なものと考えられる。「野洲駅南口周辺整備構想」と病院事業設置の条例もその正当性を制度面で裏打ちしている。

栢木市長は構想と市条例に反して正当性ない 新病院整備に関する議決も経ていない

 他方、栢木市長に関して、拘りと正当性の面から見るとどうなるか。検証してみます。

 先に、正当性の面から見てみます。そもそも、上記の構想と市条例に反していることから正当性がないことは明らか。今朝の新聞記事では、一定の手順を踏んでBブロックでの病院整備を進めている旨を市長が話したと書かれている。しかし、市長は、現実には、新病院整備に関しては、きちっとした議決を経て来ていない。これまでの議決は2回であるが、いずれも疑義が残るもの。一回目は、昨年12月議会での病院現地半額建替え検討のための補正予算。就任直後、いきなり公約の可能性検討の予算も異例だが、結果的にも、無駄遣い。二回目は、今年3月の新病院の基本構想と計画の見直しの当初予算。なお、これは、プロポーザル方式で業者選定して、先月末に契約したBブロックで病院用のもの。この予算は、地半額建替え検討の結果が出る前、ましてやBブロック病院の方針が出される以前に提案された。可決されはしたが、Bブロックを前提に可決されたものでない、いわゆる枠取り予算。この予算を病院事業設置条例の改正もしないで、執行することは、厳密に言うと、法令違反の疑いがある。

当選すれば、公約はすべて民意で認められたとの思い込みは、「法の支配」でなく、正当性ない

 栢木市長の病院事業の進め方に正当性がないことはこれにとどまらない。長々と述べるようなものでもないので、要点だけにします。市長の正当性の根拠は、すべて、次の文章に集約される。「市長選挙の公約の遂行のために行われたものであり、民意に基礎付けられたものであることが明らかであるため。」これは、5月7日に出された住民監査請求に対する市長陳述にあるもの。議会答弁や市長への手紙への回答もほぼ同じ論理、というよりお祓い文句。

 「一定の手順を踏んで進めている」と言っているが、このように手続きは踏まれていない。かたいことを言うと、民主主義を支える重要な要件は「法の支配」。そのなかには、法の内容の正しさはもちろん、手続きの公正さと厳格さも求められる。選挙公約の正しさは、当選によって確認されるのではない。市長として、市民を代表する議会に条例改正案などを提案して、可決されるという手続きを正当に踏むことによって、はじめて確認されるもの。

 市長に当選すれば、掲げた公約はすべて民意で認められたと思い込んで、議決抜きで進めていくことは、議会制民主主義では認められない。栢木市長がこれまでやってきたことは、「法の支配」でなく、「人による支配」。式目や律令以前の遠い過去のやり方で、現代では正当性はまったくない。公約、当選、民意、付け加えれば「民」に対する拘り以外の何ものでもない。