毎年全国で戦没者追悼や平和祈念の式典で繰り返されているが 生活保護申請件数の急増 

 「今日、私たちが享受している平和と繁栄」。これは昨年、令和2年8月15日の「全国戦没者追悼式」での総理大臣式辞にある言葉です。6月23日の「沖縄全戦没者追悼式」の内閣総理大臣挨拶でもほぼ同じ言葉が述べられている。これに近い言い回しは、内閣総理大臣に限らず、毎年、全国での戦没者追悼や平和祈念の式典で多くの首長などによって繰り返されています。

 ところで、今日、昨年度の生活保護の申請件数が大きく増えたという厚生労働省の速報値を元にした情報がニュースで伝えられました。申請件数が22万8000件余りと前の年度より2.3%増えて、リーマンショックの影響を受けた2009年度以来の増加。月別で見ると、今年3月申請件数は、全国で2万2839件で、前年同月と比べて1809件、率で8.6%増。前々年の同月と比べると16.6%の増加。

コロナ禍の生活困窮には生活保護制度とは別の支援が必要 

 生活保護制度の問題については、去る1月27日の菅首相の参院予算委員会での発言に関して書いたので詳しくは繰り返しません。国の発表でも22.9%となっている捕捉率の問題。生活保護基準を下回る経済状況にある世帯のうち、8割ほどが実際は生活保護を受けていない。

 それと生活保護制度は社会が通常の状態にあって、受給者が支援によって自立に向けた取組みができることが前提になっています。ところが、コロナ禍の今は、店を開けたり、上演や催しを開催すること、働くことや営業することをとめられている状況。コロナ禍の生活困窮には生活保護制度とは別の支援の仕組みが必要であることは以前書きました。

冷戦枠組みの中における高度経済成長期前提の常套句は現状認識と対策を見誤らせる

 平和に関しても、コロナ禍のなか、オリンピックとパラリンピックを開くか開かないかが大きな政策課題になっているという意味では、平和と言えなくはない。しかし、詳しくは触れませんが、冷戦が良かったわけではないが、そのかつての枠組みの中における高度経済成長期日本の状況を前提にした言い回しをいつまでも使い続けるわけにはいかない。「平和と繁栄」は目標であっても、「今日、私たちが享受している」と言える限界は過ぎているはず。この常套句は現状認識と対策を見誤らせる恐れがあります。

首長には「平和と繁栄」はもはや現状ではなく目標であるという前提で事に当たってほしい

 政府のコロナ感染防止対策に先の大戦時の状況認識と政策・戦略対応の相似を感じている人は少なくない。伝統としてか、または慣習・癖としてか、それが底流にあってもおかしくない。そこに高度経済成長期日本の一億総中流幻想を重ねていては、展望がない。

 先の大戦が終わるまでは、知事は官選。市町村長も住民の直接選挙ではなかった。また、高度経済成長期の市町村は機関委任事務制度に絡めとられて、中央集権型の行政システムのなかで国の下部組織的性格が強かった。もちろんそれが戦後復興と経済発展を効率的に進めた利点はあったが、自治体と呼べるものではなかった。

 しかしいまや都道府県を含めて、自治体の権限は広くなっており、市民の切実なニーズにこたえられる可能性と責任を持っています。

 今日、「国の予算編成へ知事が要望」という見出しのテレビニュースで、大臣に「県の要望にていねいに耳を傾けていただけた。」と知事が話していた旨報道されていました。ここにも、まだかつての非対称関係の体質が言葉に表れているようです。

 府県、市長村とも自治体の首長には「平和と繁栄」はもはや現状ではなく目標であるという前提で、市民の側に立って事に当たってほしいと思います。