駅前病院中止は選挙で決着済み? 民主主義で押し通す市長等の論理は正しいか? 

 「駅前での病院整備に反対を掲げて当選した」。これは去る5月17日の病院整備の評価委員会終了後の記者会見での栢木市長のコメント。記者会見、市議会、様々の会議などで質問や議論があっても、市長は就任以来これ一筋で通してきている。

 病院問題に関する公約の一対(ペア)の片方である病院現地建替えの可能性が健在である間はそれでも良かった。ところが、3月1日の評価委員会でそれが困難と判断され、現地建替え公約の断念を表明した後も主張を変えずに、めげずにこれで通している。

 確かに、市長のこの姿勢には一部に援護の声があります。最近の例では3月10日の市議会の病院特別委員会で荒川泰宏議員が同じ趣旨のことを民主主義のルールを持ち出して述べていた。さらには、病院は郊外につくるべきだと付け加えていた。また、17日の評価委員会では、滋賀県理事である角野委員が先にも紹介したように、(駅前はダメとの)民意が出ているのに振り出しに戻すべきでない。野洲市では皆車で移動する。野洲市民を中心とした病院は駅前でなくて良いとまで言い切った。そっくりの論理です。なお、先ほど一部にはと言ったのは、少なくとも先の評価委員会の場では、出席議員の大半が駅前を推していたからです。

選挙という民主主義手続きの入口だけで全て決まったという暴論・暴挙 議会も押され気味

 多様な意見があり、それらが自由に発言されることは重要です。しかし、政策が議論の段階を越えて、実践に移るためには決める必要がある。その手続きとして、少数意見も尊重しつつ、正確な情報に基づき、熟議を経て合意形成を図り、決定する。この熟議の過程が、評価委員会や市民との懇談会、そして議会での審議などでの開かれた建設的な議論。そして、最終的な決定は議会の本会議における議決です。政策がいきなり選挙で決まるわけではない。

 ところが、上に紹介した栢木市長など3人の論理は、駅前がダメなことは選挙で決まっているというもの。これで議会をも押し通そうとしている。病院設置条例を無視した市長一存の駅前病院の実施設計契約の解除などはその例。ましてや、郊外の病院案などは選挙の公約に上がっていなかったのに、既成事実化しているのは論外。

 選挙は政策を掲げた候補者を選ぶ制度ですが、究極的には人を選ぶもの。その選ばれた人(市長)が改めて市民に政策を具体的に問いかけ、最終的には上記のとおり、議会に議案として提出し、審議を経て可決され、初めて有効となります。

 市長たちの主張とこれまでの進め方は、選挙という民主主義手続きの入口だけで、最後まですべてが決まったという暴論・暴挙。

 これまでのところ、残念ながら議会もこの暴論・暴挙に押され気味になっているように見受けられる。劣勢挽回に期待します。

偽造署名に正当性が無いように、実現性無い病院現地半額建替え公約にも正当性無い

 ところで今日書きだしたきっかけは、愛知県知事のリコール運動をめぐる署名偽造事件です。容疑者の逮捕が昨日から大きく報道されている。今朝の新聞でも、民主主義を揺るがす、などの大見出しの記事になっています。言うまでもなくリコール(解職請求)制度は、地方自治法に定められた選挙制度を補う直接民主制の制度のひとつ。あと住民監査請求などがある。リコールには署名集めが大変で、その敷居が高いことが課題視されていますが、いずれにしても、今回のように偽造による不正は絶対認められない。

 そこで、この報道を見て連想したことが。リコールで署名の正当性が問われ、民主主義を揺るがすとか、民主主義の危機とか、今大きく問題視されている。それなら、選挙においても同じこと。公約は実現性のあるもの、正当性を備えたものでなければならない。それが問われるべきではないのか。

 栢木市長たちは、選挙という民主主義で駅前中止の民意が示されたことだけ主張している。しかし病院の現地運営半額建替え公約についての民意をどう評価し、責任を持とうとしているのか。評価委員会の実現困難という判定に責任を委ねて後は頬被りし、自己に都合の良いことだけ主張して押し通している。

 偽造署名に正当性が無いように、実現性の無かった病院現地半額建替え公約にも正当性が無いのではないか。