旧野洲病院からの新病院を建て運営を委ねる提案が始まり

 栢木市長が旧野洲病院の理事であったという情報が意外に反響を呼んでいるようです。旧野洲病院は民間病院でありながら、旧町時代から長年、野洲市から多大で多様な支援を受け続けながら、運営継続が困難となり、閉院となりました。運営継続困難である状況を受けて、市は中核的医療を市内に確保することを目的に、駅前新病院を前提にして、一昨年7月に旧病院施設を暫定利用して市立野洲病院を開院しました。

 当初、旧野洲病院を運営していた法人である、特定医療法人社団御上会は、市に対して、市が新用地を確保して新病院を建て運営を委ねる提案をしてきました。それが、2011年4月の『新病院基本構想1020』。市はこの構想提案を受けて、専門家と市民代表による「地域医療における中核的医療機関のあり方の検討」を行い、その結果が市民病院整備への一連の流れとなりました。

旧野洲病院は「新築移転」前提に構想 「中長期事業計画案(案)」 

 この旧野洲病院の構想の下敷きになっているのは、それ以前2007年3月の野洲病院の「中長期事業計画案(案)」です。そこには、次のとおり記されています。長くなりますが、引用します。

「 3, 新築移転における耐震構造上の問題点を解消

平成16年10月に滋賀県医療施設耐震化整備計画に基づき、実施した耐震調査の結果は、昭和 55年に建築された東館は改修費用として6億3千万円の工事費がかかる診断結果となっておりま す。この建物は柱や梁で持たす構造であるため、耐震補強を行うためには柱とはりを補強する必要が あり、例えば、病院の心臓部といえる手術室は、部屋中央部に柱、梁があり、この部分を補強させるには、別に手術室を準備することとなります。さらに改修に伴い工事期間中の入院患者を別の場所で確保すため仮設病院設置が必要となりますが、土地利用による敷地の関係から、増築を重ねてきたた め駐車場の確保にも支障を来たしている状態であり、仮設病院の設置も出来ない状況です。また、東館の90床(昭和55年建築)、西館の52床(平成3年建築)、北館の57床(平成13年度建築)である事から、東館改修となれば、工事期間中の利用ベッド数は西館・北館の109床となり、この規模での入院施設としては運営面で経営が成り立たないと考えられます。(野洲病院「中長期事業計画案(案)」平成19年3月)」

市は『野洲病院支援継続可能性に関する提言書』で改めて「新築移転」を確認 

 以上のことを市が改めて、調査検討した結果が「野洲病院支援継続可能性評価委員会」による『野洲病院支援継続可能性に関する提言書 平成28年3月14日』です。これについては市議会の質問等で何度も紹介されていますし、市のホームページにも全体が掲載されています。なお、この検討のための基礎調査として行われ、基礎データー等が入った『野洲病院支援継続可能性調査業務報告』については、市のホームページには平成 28 年2月17日開催の市議会全員協議会資料である概要版しか掲載されていません。

 いずれにしても、これらの調査検討と提言書の結論は、病院法人の報告と基本的に同じ内容です。

 

市長は重ねて現地建て替え検証を行い同じ結果を得た 理事と議員の経験はどこに? 「いち市民」は通用しない 早く約束の病院を

 これらがあったうえで、栢木市長は就任後、重ねて現地建て替えの検証を行って、3回も同じ結果を得たことになります。その必要は本当にあったのかと言わざるをえません。

 市長は、旧野洲病院の理事であったからには、病院にとって極めて重要な懸案事項であった施設の問題については認識していたはずです。また、『野洲病院支援継続可能性に関する提言書 』や『野洲病院支援継続可能性調査業務報告』については市議会議員として十分な情をを持っていました。この時期には、市議会議員として総務常任委員会委員長であり監査委員でした。

 先の市民団体の会議で「立候補する前には、現病院を半額建て替えが可能と本当に思っていたのか。」という会場からの質問に対して、「思っていた。」と明確に答えています。これだけの責任ある立場であった経歴とそれに伴う情報を持ちながら、この答えが、どこからどのようにして出てくるのか理解できません。それ以前に、どうしてあの公約が出て来たのかという疑問の方が先に。まさに掴みどころがないというか。

 しかし、少なくとも、市長口癖の就任するまでは「いち市民」という言訳だけは通用しなくなってきています。そして、問題はいかに早く約束の病院をつくるかということです。