SCILが3月31日で閉所 多様な活動に果敢に取り組み実績

 滋賀自立生活センター(SCIL)が3月31日で閉所しました。1993年の設立以来約30年間、障害を持つ人たちが自ら運営し、障がい者の自立生活の支援、駅や公共施設のバリアフリー化、権利擁護と社会参加の拡大、ピア・カウンセリング、障がいに対する理解促進などの多様な活動に果敢に取り組み実績をあげてきました。

1970年代アメリカ合衆国カリフォルニア州で始まった自立生活センター(CIL)

 日本での障がい者の自立生活を実現する取組の動きが出てきたのは1980年代に入ってからです。アメリカの西海岸でエド・ロバーツEd Robertsたちによって1970年代に始まった動きが、当事者の来日によって直接伝えられたりして機運が盛り上がってきました。

 日本で最初の自立生活センターは東京都八王子市にあるヒューマンケア協会で1986年の設立です。滋賀のセンターの設立も遅い方ではありません。また、『滋賀自立生活センター通信(最終号)』に代表の垣見節子さんが「30年前、何の話しか知らずに参加したSCIL設立準備会。多くの人達が喧喧囂囂(けんけんごうごう)と議論するのを」と書いているように、流行を真似たものではなく、それまでの活動の下地を踏まえたものでした。私も当初から関わっていますが、みんなが厳しい現状のなかで展望を開こうと夜遅くまで議論していたことを覚えています。

 しかし、垣見節子さんが続いて書いているように、1970年代アメリカ合衆国カリフォルニア州でエド・ロバーツが掲げた4つの理念、

(1) 障害者は「施設収容」ではなく「地域」で生活すべきである。

(2) 障害者は、治療を受けるべき患者でもないし、保護される子供でも、崇拝されるべき神でもない。

(3) 障害者は援助を管理すべき立場にある。

(4) 障害者は、「障害」そのものよりも社会の「偏見」の犠牲者になっている。

は新鮮で活動のエネルギーをもたらしました。

『アメリカ障害者法ADA』のインパクト 恩恵から権利へ

 その後、『アメリカ障害者法ADA』の成立が本国のアメリカではもちろん、日本でも大きな刺激となって、活動の促進と法制度の充実につながりました。垣見さんたちもその後、ADAの立役者であった故ジャスティンダートJr.が京都に来た時には、講演を聴きに行きました。「障害のある参加者一人ひとりの目を見ながら『Empowerment』と何度も繰り返される 言葉に、日本の福祉とは違うものを感じました。」と彼女は書いています。この時、私も一緒に参加して、人権、運動の進め方、そして制度づくりの面で大きく発想の転換を促されました。

 要するに、障がい者が、かわいそうだとか気の毒だとかということで介護や支援を恩恵的に受けることを廃する。そして、自らの権利として、支援(介護)を社会的な資源と位置づけ、自分たちでコントロールできるようにする。また社会の仕組みや物理的環境を改善していく。そのことにより生活の自立を実現し、社会参加と自己実現を達成する取組みです。いわゆる健常者にとっては当たり前のことですが、障がい者の前に立ちはだかり、それまでは当然視されていたバリアー(障壁)を取り払う活動です。特に、ADAでは、社会参加、政治参加のための情報取得における障壁を除くことの重要性にも力点が置かれています。

法制度とサービス改善されたが自立生活にとって状況が良くなったわけではない 

 「CIL運動は障害者の自立生活運動ですが、ここまで書いたように障害の無い人の利便性のみで造られた社会は、障害者は勿論、高齢者や妊産婦、また病気や一時的にケガをした人にとっても、たちまち生活がしにくくなってしまう社会。逆に言えば『障害者が安心して暮らせ社会は誰もが安心して暮らせる 社会』だと確信し」て活動を続けてきて、多くの成果を上げてきた垣見さんたちですが、センター閉所のやむなきに至りました。もちろん問題や課題がなくなったからではありません。法制度は充実し、サービスなどの支援体制も改善されてきました。しかし、エド・ロバーツが掲げた4つの理念のもとに自立した生活を志す当事者にとって状況が良くなったわけではありません。

頑張ってヘルパー制度を創ってきた自立している重度障害者が置き去りにされ、昔より死活問題に直面

 最後に、垣見さんがくれた手紙を本人の了解を得たので、今日の締めくくりにその一部を紹介します。センターの発足前から自ら自立した生活と社会参加に挑戦し、その後も動きをリードしてきた当事者の最新の生の声です。

 「設立当時は自立生活をする障害者には殆ど派遣されないヘルパー制度の元、その制度作りや障害者のエンパワメントを中心に活動を行っていたのですが、全国の大きな 波に乗ることに必死になり、大きな渦に呑まれて行ったのか。けれどそれはCIL運動だけではなく、便利になりすぎた社会は人と人とのつながりを脆弱にし、個々の人をも不器用にさせてしまうのかも知れません。」

 「障害者が命がけでボランティアを探す日々に疲れ、『困っている人誰もがヘルパー をつかえるように』と運動を牽引してきたけれど、ヘルパー事業所は時給の高い介護 保険へと流れ、その考えをベースに障害者のヘルプをするので“してあげる”“しても らう”関係は大きく歪み、あげくには放課後ディが増えて、その料金を支払う為に障 害児の母親がヘルパー資格を取り空いた時間に他の人のヘルプをするという妙な輪 があちこちでできていて、結局頑張ってヘルパー制度を創ってきた自立している重度障害者が置き去りにされ、昔より死活問題に直面している状況です。」

 今日、手紙のお礼の電話をしたところ、はつらつとした声が返ってきて、また何かに立ち向かおうとしている様子がうかがえたので安心しました。同志健在といったところです。