近江の文化の基層のひとつは渡来人文化 天日槍の伝え

 これまでも書いてきたとおり滋賀県・近江の文化の基層のひとつは渡来人文化です。ただし、このことは滋賀県に限ったことではありませんが。

 すぐ隣り町の竜王町にも鏡山の須恵器の窯跡群はじめ豊かな渡来人ゆかりの地が多くあります。車で30分程度の間なので気軽に出かけて歩いてきました。ガイドはいつものとおり、考古学、歴史学の進展からは情報は古くなっているかもしれませんが、『日本の中の朝鮮文化』。

苗村神社 荘厳な楼門と端正な本殿  『日本書紀』に記載の天日槍(あめのひぼこ)に由来の神社

 まず苗村神社に参拝しました。国道8号から東、鈴鹿山脈の方に向かい、代表的な天井川である日野川の橋を渡ってしばらくすると古代蒲生野のなかに豊かな森が見えてきます。苗村神社です。

 本では、当時社務所でもらった『苗村神社御由緒略記』から次のように引用されています。「当社は(略)垂仁紀に見ゆる吾名邑は後に那牟羅と略称し、長寸神社に苗村の字を用いたるは何れの時代に始まりしは・・・」、「当社の鎮座地は鏡山の東麓に位し、新羅王子天日槍の従人がこの付近に定住したるその中心であり、当社の氏子が33ヵ村に亘り、今も崇敬最も厚く古来より非常に栄えて来たお宮であります。」

 ここでの垂仁紀は『日本書紀』巻第六・垂仁天皇条の「三年春三月、新羅王子、天日槍來歸焉(略)天日槍、自菟道河泝之、北入近江國吾名邑而暫住。復更、自近江經若狹國、西到但馬國則定住處也。」のこと。なお、「菟道河」は宇治川のこと。

 ただし、境内の案内石碑や神社のホームページには今はこのことに触れられていません。確かめるためにネット検索したところ、滋賀県神社庁のホームページに情報がありました。そこの県内の神社紹介で苗村神社の「御由緒」として次のようになっています。「社名苗村神社についてはもとこの地域は日本書紀巻六垂仁紀に三年三月新羅王子天日槍の来帰の条に」とし、上の『日本書紀』の部分を引用した後、「吾名邑(あなむら)であり後に那牟羅(なむら)と略称されたが、地名の那牟羅と同音になる長寸(なむら)の字に替え長寸神社と称した」と紹介されています。

 本の引用のとおり渡来人に由来する神社です。別の個所にも「この吾名というのは古代南部朝鮮の小国家であった安羅(安耶・安那)からきたもので」とあります。長い間に言いつづまって、「あ」が消えたという理解です。本では県内の穴村の安羅神社なども紹介されています。

 勇壮な楼門が迎えてくれます。本殿の構えに比べると大きく荘厳な構えですが、丁寧な造りで、見飽きない美しい建築物です。室町時代初期の造営で国指定重要文化財。境内の不動堂に明王像が安置されており、もとは神仏混合であったことからこの門の構えがあったのではないかと思います。

 境内は整備されて明るく整然としています。国宝の本殿は一見簡素に見えますが、端正で美しい造りです。

鏡神社 

 行きに通り過ぎた鏡神社に帰途に寄りました。国道8号沿い。ここでは旧の東山道(中山道)の敷地がそのまま国道になっていますので、旧の鏡の宿。源義経の元服した場所として有名です。元服の池はじめ義経にちなむ史跡が多く残されています。もちろん鏡神社もその一つです。

 本殿は南北朝期か室町期の建築で重要文化財。日夜轟音を立てて車が行き交う国道のすぐ脇に素晴らしい建造物と境内の空間があります。

 ここはまさに祭神が天日槍尊です。先の『日本書紀』からの引用の続きに「是以、近江國鏡村谷陶人、則天日槍之從人也」とあります。境内にある長教育委員会の案内板にもこのことが書かれています。

 陶人とは当時新しい形式の硬質土器であった須恵器を焼いた人ということ。祭神天日槍尊は「三韓式土器で我国最古の製陶術の祖である」とされています。

 神社の入口には義経が烏帽子を掛けたという松が保存されています。また、街道(国道8号)に沿って、義経が泊まった宿屋の跡などもあります。宿屋の名前白木屋。素人の類推ですが、白木は新羅のことではないかと思います。

「御幸山」 大正天皇が統監された陸軍特別大演習を記念して命名 

 神社のある山が「御幸山」というのを初めて知りました。元は宮山(みややま)と呼ばれてましたが、1917年(大正6年)大正天皇がこの宮山から陸軍の特別大演習を統監されたことを記念して当時の滋賀県知事が命名したそうです。頂上には

「御野立(のだち)所」の石碑があります。高くはありませんが、比良、比叡、琵琶湖、湖東平野が一望できます。今は木が茂って眺望がややさえぎられています。

 ネットで国立国会図書館デジタル・アーカイブで『大正六年陸軍特別大演習滋賀県記録 』を開いてみました。1917年(大正6年)11月14日の演習の記録が詳細に残されています。大正8年に滋賀県が編集して出版したものです。野洲駅から鏡神社までの地図まで付されていて、当時の野洲市の状況を知る参考にもなります。なお、この時の大演習は、11月13日から16日までの4日間行われ、4個師団、2歩兵部隊、飛行隊合わせて兵員4万1516人、馬4560頭の実践さながらの大規模なもで、大正天皇は13日から18日の間彦根に滞在されたことになっています。

短い時間でしたが、身近なところでの豊かで濃密な歴史的時空体験でした。