政策方針に骨太さと敏感さの両面が必要 問われるべきは何に敏感か

 昨年末最後のブログを書いた後、と言ってもまだ1日経っていませんが、思い浮かんだことがあります。書くにあたって、もともとの問題意識は、批判を回避し、世評を気にしすぎる政策運営の帰結というものでした。

 政府は約20年前から毎年「骨太の方針(経済財政運営と改革の基本方針)」を策定し、閣議決定されています。国における財政も含めた政策・施策の柱となる大方針なるものです。名前は骨太ですが、現状では良くも悪くも、かなり敏感なものになっています。そして、抽象的な文言の裏には読む人が読めば、あるいは期待している人が読めば分かる、様々なメッセージが込められています。

 骨太さと敏感さは相反するように見えますが、言うまでもなくしなやかに力強い政策方針であるためには両面を兼ね備えていることが重要です。ただし、問われるべきは何に敏感かということです。そこが適正でないとせっかく骨太に進めても期待された結果が得られません。

衆議院解散が通奏低音のように常時話題になる状況は健全か

 このようなことを考えていて、思い至ったのが、今さらながらですが、衆議院の解散のことです。日本の政治の舞台では衆議院解散の話題が通奏低音のように常時流れています。この新型コロナウイルス感染拡大の難事においても。政治家、なかでも衆議院議員やその関係者、そして何より「伝家の宝刀」と言われる解散の最終判断の実質的な権能を持っている内閣総理大臣にとっては腰の据わらない状況です。常在戦場とまで言われています。しかしこのバタバタ感は健全な状態ではないのではないか。

 

憲法の範囲内で運用形態を変更し本務に専念できるよう 安定とスリム化をめざすポスト・コロナ対策として

法律論には立ち入らないで簡単に済ませますが、衆議院の解散は通常、先のように「伝家の宝刀」とも呼ばれ、内閣総理大臣の専権事項として運用されています。その根拠は憲法にあります。しかし、内閣総理大臣の専権事項としてはどこにも明確には定められていません。憲法には天皇内閣の助言と承認により行う国事行為のひとつとしての規定及び第69条の内閣総辞職の規定においてです。したがって、いくつかの解釈論があります。いまはそのうちのひとつに基づいて上記のような運用がなされています。

 現行の内閣総理大臣の専権事項として運用にも政権運営、ひいては政治の動的状態をもたらす利点もありますが、一方、先に述べたように、平たく言えば腰の据わらない状態を常時抱え込むことになります。さらに、閣議を経るとはいえ、内閣総理大臣ひとりに権能が集中することにも議論があります。

 常在戦場というといかにも緊張感がありそうですが、臨戦態勢は選挙にだけでなく、本来は政策立案と論戦、その実施に向けれるべきものです。その意味で、10年前のイギリスの制度改正のようなところまで行くかは別として、憲法の規定の範囲内で今ほどのフリーハンドさのない運用形態に制度変更できないものかと考えます。そのことによって、当の議員も官僚もそして選挙事務を担わされる自治体も腰を据えて一層本務に専念できるのではないかと考えます。

容易なことではないとは思いますが、これほどの難事をきっかけとした、安定とスリム化をめざすポスト・コロナ対策としても改めて検討の余地はあると思います。