「政治は結果がすべて。」だけではないけれど 数の論理に頼む場合には便利

 「政治は結果がすべて」と壮語する政治家が結構多くいます。もちろん手をあげて選ばれた政治家である限りは、市民・国民の安全とそれぞれの幸せ実現のために結果を出すことは必須であることは言をまちません。しかし民主主義の法治国家である限りは、これまた言をまつまでもなく、結果を出すための議論や手続きも欠かせません。まさに先に書いた「能く行い能く言うは国の宝なり」です。「政治は結果がすべて。」という壮語の裏には、往々にして、議論や手続きを少しばかりおろそかにしても良いという下心が透けて見えます。数の論理、これは論理ではなく力学ですが、これに頼んで強行採決するときなどに便利に使われる言い訳です。

「政治は結果がすべて。」の論理に照らせば、虚偽の言説になるのでは?

昨日は国会の議会運営委員会の中継の要所だけしばらく見ました。そこで頭に浮かんできた言葉が先の「政治は結果がすべて」。国会で何度も事実と異なる発言が繰り返された事実。その場でそれを聞いた国民の代表である議員はもとより、それを間接的に見聞した国民からすれば、「政治は結果がすべて。」の論理に照らせば、虚偽の言説を聞かされたことになります。

ところが、昨日の説明者の論理は、このような結果に至ったのは、自分の秘書が事実と異なる報告をしたことが原因であり、自らは虚偽の答弁をするつもりはなかったというもであったと思います。しかし、これは検察や裁判など司法の世界の論理。政治の世界では通らない。ましてや「政治は結果がすべて。」のイメージが強かった政治家であり、期待していただけに残念です。

政治が自立し司法優位にならないように

余談ですが、もし議論や手続きも同時に重視する対応をするなら、なぜ秘書が事実と異なる報告をしたのか、せざるを得なかったのかも説明されなければなりません。これについては、すでに司法の場で決着がついているので、昨日の場が実現したのでしょうが、気の毒にも秘書の思いと発言は政治の場には出てきませんでした。司法の場での決着が前提のやり取りでは、政治が、ましてや国会が3権分立に反し、司法の僕に身を置くことになります。

政治に対する信頼が劣化しない今後の政治のために

もうひとつの余談ですが、質問の方です。答弁者に配慮したものと厳しく見えるものとそれぞれありました。本当に答弁者に配慮するのであれば、党派と本人が自ら律すという心構えで、もっと厳しい質問を問いかけた方が良かったのではないか。その方が国民の信頼が得られたと思います。

他方、厳しく見える質問も、この場だけでは終わらせたくないという、時間の制約もあってか、先に結果ありきになっているようで、やり取りが展開する対話になっていませんでした。

新型コロナウイルス感染が拡大し、医療、社会経済状況が深刻さを増すなかで、今国会の時間を費やす問題ではありません。今になった責任も別にあると思いますが、それは置いても、コロナウイルス対策も含め政治に対する信頼が劣化しないようにこの山を越えてほしいと思います。自治体の政治も含め「政治は結果がすべて。」だけではない今後の政治のために。