自助と協働という言葉の使用を控える

特別職も含め40数年間の自治体の公務員として仕事をするなかで、ある時期から、2つの言葉、自助と協働という言葉の使用を控えるようにしてきました。挨拶文の案などでこれらの言葉が使われたものが回ってきても言葉を変えるというより、文意を含めて表現を変えるようにしてきました。些末なことへのこだわりと思われるかもしれませんが、理由はつぎのとおりです。

市(市政)主権者である市民との協働は筋が通らない

まず、手っ取り早く済む協働の方から入ります。市(市政)は、エイブラハム・リンカーンのゲティスバーグ演説で述べられているとおり、主権者である市民の市民による市民のためのものです。したがって、何気なく使われる、市民と市が協働して何らかの事業をするといった表現とそのもとにある考え方は筋が通らないと考えていたからです。もちろん市民間、NPOなど団体間の協働は問題なく歓迎されるべきことです。

自助、共助、公助に優先するものではない 依存心と独立心の共存が重要

次は自助の方です。理由はつあります。ひとつは単純なことです。助とはだれかが誰かを助けることであって、両者が同じというのは、自分で自分を抱き上げることが不可能なように適切な表現でないからです。これは言ってみれば些末なこだわりではあります。言うのであれば、自立の方がふさわしい。

このように言うと、英語でもセルフ・ヘルプという表現あり、よく知られたサミュエル・スマイルズの『自助論』と題した本もあるではないかとうい反論が予想されます。この本は1859年に原本が出ています。それから12年後、著者による改訂版が出てからわずか5年後の明治初期1871年に中村正直が『西国立志編』として翻訳して出版され、広く読まれました。その中身は、立志という書名が示すとおり自立心強くもち、勤勉、誠実、熱意をもって努力と工夫を重ねてして成功し、社会貢献した300人を超える人たちの伝記集であり教訓の書です。いま通常言われている、自助、共助、公助という文脈のそれではないと思います。

実際、本のなかでも、「相反するかのように見える依存心と独立心を共に持つことが重要である」という詩人ワーズワースの言葉が紹介されています。さらに、それに引き続いて「人は幼年期から高齢期まで年に関係なく、他人に養育され教育される。」とあります。優秀で強い人ほど他からの助けを喜んで素早く受け入れるとして、19世紀フランスの政治家で民主主義思想の古典とされる『アメリカの民主政治』の著者であるトクヴィルの生き方を紹介しています。その他随所に立志、勤勉、誠実、努力と同時に支援や援助の重要性を説いています。かりに自助ということを認めるとしても、先ずは自助があって、それで足らなければ共助、公助に頼るといった自助を優先する考え方ではありません。

主権者である市民に対し自助・自立を求めることも筋違い

自助を避けるもうひとつの理由も先の協働とよく似て単純です。主権者である市民に対して市が自助なり自立なりを求めること、これも筋違いであると考えたからです。スマイルズが『西国立志編』で説く立志なり自立は大切ですが、それは市民の主体的な思いなり姿勢であって、市の側が求めるものではありません。

自治体の役割 誠実で信頼に足る科学的手法による自立支援の政策形成

いうまでもなく経済力の強い人であれ、社会的地位が高い人であれ、ひとり独立して生き、成長できる人はいません。先のブログで書いたように私たちを取り巻く暮らしの状況は厳しさを増しています。そこに新型コロナウイルス感染症の拡大の影響、さらには巨額の財政出動の帳尻合わせのための負担増とサービス削減が控えています。自治体も含めて、政府の役割として、自助を求めるよりも、多様な自立支援を提供する仕組みが一層重要になってきます。ここでいう自立支援は通例想定されているいわゆる弱者支援に限られるものでなく、成長や挑戦のための支援も含めてです。多様なとはどのようなものかついては、それぞれの現場からの情報に基づいて形作られなくてはなりません。その意味では、市民に近い自治体の役割が重要です。まだ当然視されている、世評や漠然とした民意といったものでなく、それらも解析の対象とする誠実で信頼に足る科学的手法による政策とサービス形成が重要です。批判を避け世評だけを気にする政策づくりでは市民の幸せを支えられません。ここまで書いてきて、かつて話題に取り上げた改正社会福祉法の市民に共助を求める仕組みのことも気になりましたが、稿を改めます。