壊す方は勇ましく、作る方は腰が引け、郊外の可能性まで公言

昨日、野洲市での現病院・運営半額建替え選挙公約について書きました。そうしたら丁度今日の新聞朝刊の地方版にそれを裏書きするような記事が出ていました。当事者である市長の記者会見の報道で、打ってつけです。ネットには出ていないようです。私なりにまとめれば、次のようなことです。

市長選挙で駅前の病院整備は市民の声を受けて取りやめる。現在進んでいる設計作業も契約解除の手続きを進める。現地建て替えはあくまで私案であり、第3者委員会で現地建て替えが困難と判断された場合、郊外での整備になる可能性がある。以上が報道の概要です。

残念ながら、伝聞や風聞は的を外れていませんでした。「郊外での整備になる可能性がある。」とまで、悪びれず公言されると市民の心配はつのります。もちろんそれを期待している人たちには、大きなメッセージです。半額のことについては報道では触れられていません。こうした論法が公然と通用するのか、もし通用するならどう名付けられるものなのかと思います。

 

現病院運営しながら半額で同等の病院建て替えのパッケージへの一票 そこからの論点ずらし

私の基本的な問題意識は、昨日も書いたとおり、軌道に乗り出した市立病院の医療が順調に展開して市民が一層安心して医療が受けられることです。それを基本にして、上の論法の解き明かしを試みてみます。

市長は候補者として、市の議決を経て進められている現行の駅前新病院整備事業より、現病院を運営しながら半額程度で同等の病院が建て替えられる計画をパッケージとして提案したわけです。争点は単一ではありませんでしたが、病院に限ってみれば、市民は医療が継続されながら同程度のものができると「約束」されるのなら、そちらが良いと一票を投じたわけです。公式ビラはもちろん、昨日触れた選挙の事前ビラでも本人が、「専門家とともに調査検討の結果、120億円の約半額で新病院建設が可能と分かったので、この案をもとに、早急にこの問題を決着させるべきだ」と発言しています。それならと賛同した市民は少数ではないはずです。

このことは、推測でなく、私も直接にまた間接的に聞いていますし、本当にそれができるなら私も一票投じると公言していたぐらいです。しかし、半月余りしか経ってない今になって、これから検討し、場合によっては郊外での整備になる可能性があると悪びれずに公言されては市民は不幸です。

もうひとつの論点ずらしは、市民病院が争点であったとするなら、駅前か現地かが選択肢ではなく、駅前か現地運営半額かが選択肢であったことです。それが駅前だけを否定する論法にすり替わっています。さらに、駅前の事業は方針の段階でなく、議決されたいくつかの条例と予算によって根拠づけられています。選挙で民意が示されたという身勝手な論理で突き進むことができるなら議会の機能が無視されることになります。まずは、約束した現地運営半額建替えの実像を早く示すことが肝心です。それが確実と認められれば、無理に勇まなくとも駅前計画は自ずから退いていくはずです。しかし、逆は釣り針を無理に引き抜くことと同じです。

これは論法でなく商法(ディール) 市民にとっては深刻だが貴重な政治のケース

さて、この論法を何と名付けるかです。いや、これは論法でなく、商法、今流行りのディールです。それも問題なしとしない類の。

「特に政治およびその他の公共問題に関する言論と表現の自由は、いかなる民主主義にとっても原動力である。」ここは、便利な引用ですましますが、これはアメリカ国務省の「民主主義の原則“Principles of Democracy”」と題された文書にある「言論の自由」の中の文章です。また、議会の別名は「言論の府」です。このままでは論が商にすり替えられ、民主主義が損なわれる恐れがあります。

今後の動向は市民にとっては、極めて深刻な問題です。しかし、この状況は今回ここだけのことではないと思います。その意味で政治に関心のある人にとっては、目が離せない貴重なケースになるかもしれません。