
フォトグラファー豊崎博光氏の「格の影を追って」より
ビキニ環礁の核実験のレーポートから抜粋です。
1946年ビキニ環礁はアメリカの核実験場に選ばれた。
当時166人が住む島を訪れたアメリカ軍将校は
「我々は世界の戦争を終わらせるためにここで爆弾の実験を行う。
爆弾は人類の福祉と平和のためのものだ。
実験が終わったら、すぐに戻してやる」 といった。
これに対してリーダー格の老人は
「合衆国と世界の科学者たちがより一層の発展のために
私たちの環礁を使いたいのであれば、
そして全人類に神のご加護と利益をもたらせるのであれば
わが島の人はどこへ行こうとも喜ぶであろう」
と答えたといわれる。

島を出された住民たち
住民を追い払ったビキニ環礁では
1946年6月30日から58年7月22日まで
23回の原水爆実験が行われ(内水爆実験は12回)
三つの島が消滅した。
1974年、ビキニ島の地下水から高い量の放射能が検出され
75年には植えられたヤシの木の実からも放射能が検出された。
78年戻っている住民の体内から以上な量のプルトニウムや
セシウムが発見され、アメリカは同年4月13日、戻っている住民の再移送と
ビキニ島の閉鎖を決めた。
敬虔なキリスト教徒であるビキニ島住民に対してアメリカ軍将校は
「主の導きで敵の手を逃れ、約束の地についたイスラエルの子たちと
諸君は同じことするのだ」と説得したしたそうだ。
「出エジプト記」ならぬ「出ビキニ記」だ。
それに対して住民たちは
「私たちは、エジプトを去って40年間砂漠をさまよった
イスラエルの子供たちに似てとても悲しい。
私たちはビキニを去って32年間大洋をさまよっていた。
しかし、約束の地(ビキニ)には帰れない」
と強烈な皮肉を込めたメッセージを返している。
信仰は「正当化」の手段となり
「抑止力」は信仰へと変貌していく のか。

放射能で汚染された島では、魚もヤシの木の実も
食べられなくなり、アメリカからの食糧支援となった。
缶詰の空き缶やブリキの箱などが海岸に打ち捨てられている。

当時村長だったジョンさんの息子レジンさんが1歳で被爆し19歳にて死亡した遺影。
画像は全て引用写真