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▽ 補注:東漢/人物.3

 

党錮

尹勲   ~168
 河南鞏(鄭州市鞏義)の著姓。字は伯元。 剛毅で廉直を旨とし、孝廉より歴遷して尚書令に進み、大将軍梁冀 の誅戮直後には複職を兼務して能吏と讃えられた。 九卿を歴任し、霊帝が即位すると大将軍竇武 に参謀して尚書令とされ、宦官に敗れて獄中で自殺した。

蔡衍   ~168
 汝南項(河南省沈丘)の人。字は孟喜。経書に明るく公正を讃えられ、冀州刺史の時に河間相曹鼎(曹騰の弟)の臧賂を挙該し、中常侍具瑗・大将軍梁冀らの請託を斥けたことがあり、帰洛後も梁冀の通見を許さなかった。 亦た南陽太守成瑨 らが廷尉に徴された事を議郎劉瑜 と与に強諫し、言辞切厲として罷免された。 霊帝が即位すると議郎に辟されたが、偶々病死した。

朱震
 字は伯厚。陳留の人。州従事のときに済陰太守単匡の臧賄を挙奏し、車騎将軍単超 に譴責を及ぼした。 旧友の陳蕃 が殺されると銍令を棄官して哭礼埋葬し、遺児の陳逸を隠匿して拷案にも屈しなかった。

竇妙 (桓思竇皇后)  ~172
 竇武 の娘。定襄太守竇奉の孫。 鄧皇后 の廃黜後に掖庭に納れられ、当時は采女の田聖が桓帝に最も寵愛されていたが、門地を士大夫に支持されて皇后とされた。 桓帝の死後は皇太后として臨朝し、竇武を大将軍として解涜亭侯 を迎立する一方で、殯中でありながら田聖を殺し、他の寵妃は宦官の苦諫で殺害を免れた。竇武らの宦官誅戮に賛同せず、竇武らが敗死した後は南宮の雲台に幽閉され、母が配所の比景で歿したことを悲歎して病死した。

竇紹   ~168
 竇武の甥。竇皇后が立てられて虎賁中郎将に叙され、当初は驕慢だったが、竇武の自該に接して自律するようになった。 竇太后が垂簾すると歩兵校尉に進められ、竇武の誅宦にも参与して歩兵営で竇武とともに自殺した。

欒巴   ~168
 魏郡内黄(安陽市)の人。字は叔元。生来の閹人だったが、後に士人となって士官を歴任した。 長吏として治績を挙げ、漢安元年(142)には守光禄大夫として按察八使にも数えられたが、桓帝を強諫して禁錮された。 霊帝が即位すると議郎とされ、竇武陳蕃 のために訟冤して獄中で自殺した。

劉儒   ~168
 東郡陽平(山東省莘県)の人。字は叔林。郭泰 から“珪璋の質”と絶賛された。 要職を歴任し、竇武の党人と誣されて獄中で自殺した。

劉淑   ~168
 河間楽成(河北省献県)の人。字は仲承。五経に通じ、顕官を歴任した。 宗室として重用され、しばしば宦官排斥を上書し、竇武らの党与として投獄されると自殺した。

劉瑜   ~168
 広陵(江蘇省江都)の人。字は季節。 武帝の子/広陵靖王の玄孫。経学の他に図讖・天文・暦算に通じ、太尉楊秉に薦挙され、霊帝が即位すると侍中に進んで大将軍竇武らに参謀した。 管覇らを誅した竇武の逡巡を断つために、天文を案じて大臣の頓死を予言し、このため竇武は宦官鏖殺の既成事実を以て太后の追認を得る方針に転換した。 計画の失敗で竇武らと倶に刑戮された。

劉祐   ~168
 中山安国(河北省保定市)の人。字は伯祖。宗室の名望であり、経学を修めて文辞に長じた。 尚書令・河南尹・司隷校尉を歴任し、大将軍梁冀 や宦官の子弟と雖も畏憚せず、京師に入る権貴は皆な、輿服を替えて財宝を隠匿してから越境したという。三公に擬される度に宦官の譖毀で用いられず、霊帝が即位すると河南尹とされ、陳蕃 の敗死で罷免されて程無く歿した。

 
 

甘陵の党事  桓帝の人事に対する譏議。 桓帝は即位すると、嘗ての学師の周福を尚書とし、これを同郡(甘陵)の碩学/河南尹房植の門生が「故縁の叙」と批難し、互いに党を為して譏毀したこと。 一般にこれが党議=朋党を為しての誹り合いの嚆矢だとされる。

汝南の党議  汝南太守宗資が、厳明の名士と定評のある范滂 に郡務一切を委ね、世人が挙って賞賛し、范滂の挙吏を范党と称したこと。
郷論の昂揚は風評を過度に重んじる風潮を全国に蔓延させて売名の士 を多く輩出し、渤海の公族進階・扶風の魏斉卿などは詭議を弄して人士を折辱し、公卿と雖も貶評を畏れて迎合したそうです。

三君八俊
三君:一世の宗
 竇武  ・劉淑  ・陳蕃
八俊:三君に亜ぐ英俊
 李膺  ・荀昱  ・杜密  ・王暢  ・劉祐  ・魏朗  ・趙典  ・朱㝢
八顧:徳を以て導く者
 郭泰  ・宗慈 ・巴粛  ・夏馥  ・范滂  ・尹勲  ・蔡衍  ・羊陟
八及:宗主たりうる者
 張倹  ・岑晊  ・劉表  ・陳翔  ・孔昱 ・苑康  ・檀敷  ・翟超
八廚:財を以て救う者
 度尚  ・張邈  ・王考 ・劉儒  ・胡母班  ・秦周 ・蕃嚮 ・王章

張成   ~167
 河内の人。 風角に善く、その風評は宦官を介して上聞にも達していたが、大赦を推占して殺人を行ない、これを河南尹李膺が大赦を踰えて刑誅した事で、延熹の獄に発展した。

袁閎   129?~185?
 汝南汝陽(河南省商水)の人。字は夏甫。彭城相袁賀の子。 光禄勲袁彭 の孫。夙に清節を旨として家門の驕奢を危ぶみ、袁逢袁隗 らとは交わらなかった。 延熹の獄 で隠遁し、黄巾も敬重して郷里を侵さず、隠遁18年で歿した。魏晋時代に輿望を集めた名望の先駆的存在とされる。

袁忠   ▲
 字は正甫。袁閎の弟。初平年間(190~193)に沛相とされて清明を讃えられたが、天下が乱れると棄官して会稽上虞(浙江)に客居し、太守王朗 を虚飾と評して交わらず、孫策が会稽を陥すと交趾に遁れた。許遷都で衛尉に擬されたが、叙任前に客死した。

苑康
 渤海重合(山東省楽陵)の人。字は仲真。太学では郭泰 と親交し、長吏に転じると糾察厳厲を知られた。 泰山太守の時に、張倹 の糾察を逃れて越境した侯覧 の賓客全てを収掩し、侯覧に讒誣されて日南配流に減死されたが、羊陟 らの訟冤で帰郷を許されて家で歿した。

羊陟   ▲
 泰山梁父(山東省泰安市区)の勢族。字は嗣祖。 夙に清名があり、李固 の故吏として禁錮され、誅梁後に諸官を歴任した。 司徒樊陵 ら宦官と結託した公卿を劾奏し、そのため建寧の獄 に累坐して家で歿した。

王芬
 冀州刺史。黄巾の乱の後、許攸・周旌・陳逸(陳蕃 の子)らと霊帝の廃黜と合肥侯の擁立を謀ったが、曹操・華歆らの賛同を得られず、間もなく失敗した。 『九州春秋』によれば、霊帝の河間巡幸に乗じることを謀り、黒山討伐の名で兵力の動員も裁可されたが、巡幸の中止と徴召が重なったことで露見と判断して自殺した。

夏馥
 陳留圉(河南省杞県)の人。字は子治。交際を厭って挙任にも応じなかったが、声望から宦官に畏憚され、建寧の獄 では范滂張倹 と並ぶ党魁として誣陥された。 張倹の亡命に累連する者が多いことを歎じ、名貌を変じて山中に逃れ、解錮の前に歿した。

賈彪
 潁川定陵(河南省舞陽)の人。字は偉節。 太学の宗として郭泰 と並称され、同郡の荀爽 とも声名を斉しくしたが、荀爽とは畢に睦まなかった。 孝廉から諸官を歴任し、延熹の獄 では城門校尉竇武 ・尚書霍諝を説いて訟冤させた。 建寧の獄岑晊 が逃亡したことに批判的で、来奔した岑晊を拒むことで節としたが、党人として禁錮されて家で歿した。

魏朗   ~169
 会稽上虞(浙江)の人。字は少英。太学で五経を修めて衆望を得、矜厳でも知られた。 延熹の獄 で尚書を罷免され、建寧の獄 で党人として徴されると、牛渚(安徽省当塗)に到って自殺した。

仇覧
 陳留考城(開封市蘭考)の人。字は季智。齢40で県吏となり、県令の援助で太学に学んだが、游談を貴ぶ太学の風潮を黙批し、既に高名だった同郡の符融 とも交わらず、郭泰 は牀下に伏して拝謁したという。帰郷後は叙任に応じず、家で病死した。

虞放   ~169
 陳留東昏(開封市蘭考)の人。字は子仲。順帝の初に学師の楊震の冤を訟えて名を顕し、後に尚書として大将軍梁冀の誅殺にも参与した。延熹3年(160)に司空とされたが、宦官の寵任を諫めて罷免され、建寧の獄 で殺された。

黄憲
 汝南慎陽(河南省正陽)の人。字は叔度。寒貧な牛医の子だったが、袁閎 から“顔子 ”と敬服され、倨傲で知られた同郡の戴良も黄憲に及ばないことを自認した。 同郡の陳蕃周挙 のみならず、隣郡の荀淑 からも“師表”と敬重され、汝南に周遊した郭泰 は、黄憲と談じて数日去ることができなかったという。生涯仕官しなかった。

荀昱   ~169
 潁川潁陰(河南省臨潁)の人。字は伯条。荀淑 の兄の子。 官は沛国相に至り、弟の広陵太守荀曇と共に宦官派の糾察で知られた。 荀昱は後に建寧の獄 で殺され、荀曇は終身禁錮に処された。

成瑨   ~166
 弘農の人。字は幼平。 経世の才と直言で知られ、南陽太守とされるや岑晊 を功曹とし、郡政を委任して賢守と称された。 桓帝の美人の外親/張汎を刑誅したことで誣告され、太原太守劉瓆と倶に棄市された。

劉瓆   ~166 ▲
 平原の人。字は文理。 公正厳直を知られて太原太守に至り、宦官派の在豪らを刑戮したが、晋陽の小黄門趙津を大赦後に拷殺した事から、成瑨と倶に棄市に処された。

檀敷
 山陽瑕丘(済寧市兗州)の人。字は文有。貧寒を好んで他者の施恵を嫌い、郡県の辟召にも応じなかった。 霊帝の即位後に方正に挙げられ、蒙令(商丘市区)の時に太守の庸懦を忌んで棄官した。

陳翔
 汝南邵陵(河南省漯河市区)の人。字は子麟。正旦の朝賀で大将軍梁冀の威儀の不備を弾劾したことがあり、後に揚州刺史の時、呉郡太守徐参(徐璜 の弟)の貪穢を挙奏して天下に名を知られた。 剛直を忌まれて党人と誣告されたが、交誼が広かったにも拘らず明証が無かったため、釈免されて家で歿した。

杜密   ~169
 潁川陽城の人。字は周甫。守相として宦官子弟の令長を厳重に糾察したことで讃えられた。 高密県の郷佐だった鄭玄 を異器として太学に遊学させた人物でもあり、後に尚書令・河南尹・太僕を歴任した。 延熹の獄 で帰郷した後は李膺と同行することが多く、世に“李杜”と称された。 霊帝が即位して太僕とされ、建寧の獄 で召喚されると自殺した。

巴粛   ~169
 渤海高城(河北省塩山)の人。字は恭祖。 建寧の獄竇武陳蕃 への参謀が露見し、県令は印綬を解いて同遁を求めたが、これを拒んで獄死した。

符融
 陳留浚儀(開封市区)の人。字は偉明。 吏職を愧じて棄官し、太学で少府李膺 に師事して「談辞は雲の如く」と絶賛され、李膺は常に賓客を絶って談論を傾聴したという。 亦た一瞥で郭泰 の才器を認め、李膺に薦めた。徴辟は悉く辞し、党錮の後に家で歿した。

晋文経   ▲
 文経は字。漢中の人。済陰の黄允と与に京師で名を顕し、徴辟には悉く応じず貴顕とも交際しなかったことで声望を高めたが、符融から“売名”と評されてより凋落し、後に軽薄子として世人から廃毀された。

黄允   ▲
 済陰の人。字は子艾。 俊才として知られ、郭泰 からも“絶人の偉器”と評されたが、不道として認められることはなかった。 後に司徒袁隗 との通婚を欲して妻女を離縁したが、離別の会で妻女によって匿穢を暴かれ、世人から廃毀された。

劉寵
 東莱牟平(煙台市区)の人。字は栄祖。高祖の庶長子/斉悼恵王 の裔。 通儒と称された父の劉本と同様に諸学に明るく、長吏となっては煩苛を除き、非法を禁察して恵政につとめた。 会稽太守から将作大匠に転ずる際には山間の老人が各々百銭を奉じたが、大銭一枚のみを受けたことで「取一銭太守」と呼ばれた。
延熹4年(161)より三公を歴任し、建寧の獄 の直後に太尉を罷免されると帰郷して出仕せず、家で歿した。 清素を旨として家に余財は無く、温寛で争事を避けたことから“長者”と称された。
 甥の劉岱 は兗州刺史、その弟の劉繇 は揚州牧に至り、倶に名声があった。