彼は、昭和39年東京オリンピック男子マラソンで銅メダルを獲得。次のメキシコオリンピックでは、金メダルを期待されるのですが、様々な不幸が重なり、メキシコオリンピックを前に、自ら命を絶ってしまいました。

当時、私は小学生でしたが、円谷選手の訃報を伝えるテレビニュースを今でも鮮明に覚えています。

この円谷選手をモチーフにした「一人の道」と言う楽曲が昭和47年に発表されました。

唄はピンク・ピクルスで、
当時の女子学生フォークデュオです。

「 一人の道」
唄:ピンクピクルス
(1972年 昭和47年)

ある日走った その後で 
僕は静かに 考えた
誰のために 走るのか 
若い力を すり減らし

雨の降る日も 風の日も 
一人の世界を 突っ走る
何のために 進むのか 
痛い足を がまんして

大きな夢は ただ一つ 
五つの色の 五つの輪
日本のための メダルじゃない 走る力の 糧なんだ

父さん 許して下さいな 
母さん 許して下さいね
あなたにもらった ものなのに そんな生命を 僕の手で

見てほしかった もう一度 
表彰台の 晴れ姿
だけど 身体は動かない 
とっても もう 走れない
これ以上は 走れない


昭和39年10月21日、東京オリンピック最終日を飾る男子マラソン競技。

ローマ、東京とオリンピックマラソン二連覇を達成したアベベ選手に続いて、大観衆の国立競技場に入ってきたのは、円谷幸吉選手でした。

しかし、円谷選手は、最後のトラック争いで、3番目に入って来たイギリスのヒートリー選手に追い抜かれ、惜しくも銅メダルに終りました。

銅メダルには終わったものの、国立競技場にはベルリンオリンピック以来となる陸上種目の日の丸が上がり、次のメキシコオリンピックでは、円谷選手は多くの国民から、今度こそ金メダルを!と期待されました。

円谷選手には、メキシコオリンピックの2年前に、結婚を約束したフィアンセがいました。

しかし、オリンピックを前に、結婚が競技にマイナスに働くと主張する自衛隊幹部の猛反対で、あろうことか破談になってしまいました。

また、苦楽を共にした一番の理解者である畠野コーチが、破談を食い止めようと幹部に逆らったため、北海道左遷になると言う不幸も重なりました。

そして、さらには持病の椎間板ヘルニアの悪化、アキレス腱炎で、思うように走れなくなり、次第に追い詰められて行ったのです。
    
遂にはメキシコオリンピックの年(1968年)1月に、円谷選手は自ら命を絶ってしまいます。
享年27歳でした。

円谷選手はこんな遺書を残しています。

「父上様、母上様、三日とろろ美味しゅうございました。
干し柿、モチも美味しゅうございました。
敏雄兄、姉上様、おすし美味しゅうございました。
克実兄、姉上様、ブドウ酒とリンゴ美味しゅうございました。
巌兄、姉上様、しそめし、南ばん漬け美味しゅうございました。
喜久造兄、姉上様、ブドウ液、養命酒美味しゅうございました。
又いつも洗濯ありがとうございました。
幸造兄、姉上様、往復車に便乗させて戴き有難うございました。
モンゴいか美味しゅうございました。
正男兄、姉上様、お気を煩わして大変申しわけありませんでした。
幸雄君、秀雄君、幹雄君、敏子ちゃん、ひで子ちゃん、良介君、敬久君、みよ子ちゃん、ゆき江ちゃん、光江ちゃん、彰君、芳幸君、恵子ちゃん、幸栄君、裕ちゃん、キーちゃん、正嗣君、立派な人になって下さい。
父上様、母上様、幸吉はもうすっかり疲れ切ってしまって走れません。何卒お許し下さい。
気が安まることもなく御苦労、御心配をお掛け致し申しわけありません。
幸吉は父母上様の側で暮らしとうございました。」

最後のくだりが胸に迫ります。

補足)
東京オリンピックでは8位に終った君原選手は、自分のた