前回の続きになります。
過去記事から引用
言葉の意味は辞書を調べれば、誰でもわかります。
しかし、言葉の定義は人によって違うことがあるので、聞かないとわからないことがあります。
会話がかみ合わない人がいたら、もしかしたら言葉の定義が違うかもしれない。
相手をわかろうとすること、相手を理解しようと努めるとは?
具体的には相手に「聞く」のが早いことが多いでしょう。
前回書いたように、反論ではなく質問に出来るということ。
反論を疑問文に変換するテクニック的なことではなくて、相手を理解しようとすれば、反論ではなく質問になっちゃうはずです。
逆に、反論が出る(思い浮かぶ)ということは、相手を理解しようとしてないとも言える。
むしろ、私を理解してよ、私のことをわかってよ、ということですよね。
前回リンクにも出てきた少女と老婆の絵で説明します。
自分は少女にしか見えないとします。
しかし、老婆だという人がいる。
老婆だと?そんなわけあるかー!(相手が間違っている)
ってのは、相手を理解しようとしていない。
自分の正しさはとりあえず置いておく。
相手も正しいとしたら?相手の正しさを理解しようとする。
相手がどのように見て老婆に見えているのか?それを聞けばいいですよね。
「われわれに必要なのは、他者の目で見て、他者の耳で聞き、他者の心で感じることだ」
アルフレッド・アドラー
そういう本音で、相手をわかろうとする、理解しようとして聞けば、教えてくれる人が多いはずです。
自分と相手の正しさがぶつかってしまったら、自分が折れてしまってもいい。
「あなたがそこまで言うのなら、私の方が何か勘違いしているかもしれませんね。もっと詳しく教えてもらえますか?」
少女と老婆の絵なら、「老婆の鼻がここで、目がここですよ」って教えてもらえたら納得できるかもしれません。
なるほどーそういう見方してたのかー。自分も正しいけど、相手も正しかったんだなとわかる。
少女と老婆の絵の話はブログで何度か出してますが、こういうコメント頂いた記憶があります。
「どちらも正しいなんてことはめったにありません」
どちらも正しいということはよくありますよ。
どうしてかというと、最初にリンクした記事にあるように、同じ言葉でも意味合いや定義が人によって違うことはよくあります。
ですから、同じものを見ても、私の定義では正しい、相手の定義では正しいということはよくあるわけです。
上司「この仕事ちゃんとやっとけと言っただろ」
部下「ちゃんとやりましたよ」
さて、どちらの言い分が正しいでしょうか?
上司の「ちゃんとやる」と部下の「ちゃんとやる」の定義が違っていれば、それぞれの定義において、それぞれが正しいということは成り立ちます。
定義とは?
定義は、一般にコミュニケーションを円滑に行うために、ある言葉の正確な意味や用法について、人々の間で共通認識を抱くために行われる作業。一般的にそれは「○○とは・・・・・である」という言い換えの形で行われる。基本的に定義が決められる場合は1つである。これは、複数の場合、矛盾が生じるからである。
-ウィキペディアより
例えば、それぞれの定義がこうだとします。「○○とは・・・・・である」
上司の「ちゃんとやる」とは、「この作業をやり終え机上も綺麗に片付けるまでのことである」
部下の「ちゃんとやる」とは、「この作業をやり終えることである」
それぞれの定義においては、言っていることはそれぞれどちらも正しいわけです。
前回からの皿洗いの話
店長「皿が綺麗じゃなかったぞ!次からはもっと綺麗に洗っとけ!」
皿洗いのアルバイト「綺麗に洗いました」
これね。
自分がアルバイトで、綺麗に洗ったことは間違いない、正しい。
しかし、それはあくまで自分の定義であったり、主観であったり、自分の基準で正しいに過ぎない。
店長の言ってることも正しいと仮定して考えてみる。
店長はどこ見て、何を見て、どういう基準で、綺麗じゃなかったと言っているのか?
それを理解しようと努める、聞いてみる。
そしたらこんな展開になるかもしれません。
店長に聞いたら、皿を持ってきてくれて「ほらここ、汚れ?のあとがあるだろ?」と説明してくれた。
「たしかに!なにかあとがある・・・・。店長が綺麗じゃないと言っているのは正しかった。でもなぜ?」
「私が洗ったときは本当に綺麗だったんです!そんな汚れあと付いていませんでした。ツイッターでみんなに見せたいほど綺麗だったんです!私のこのツイート見てください!」
「最近のスマホが画質がすごいな。うん、たしかに綺麗だな。君の言っていることも正しかった・・・・。ん?ちょっと待てよ。ここ、見てみろ」
「え?どこですか?別に汚れてませんけど?」
「ここの水滴だよ」
「水滴が何か?」