初秋の一日、京都の郡部である胡麻の街を訪れた。京都から山陰線の各駅停車で1時間ほど。 京都というとどうしても市内の風雅な歴史建造物に大勢の人で賑わっている様をイメージしてしまう。 だがここ胡麻付近は京都府にとっての郡部に当たり、黄色くなりかけた水田が駅の真ん前に鎮座しているように見える丸山の周囲一面に広がっている。 一見、何の変哲もないのどかな集落だ。 しかしここ、いやこの一帯は大いに変哲のある地域なのだ。


まずこの胡麻の地域は、桂川、淀川となって大阪湾にそそぐ胡麻川が東に向かって流れだす所で、西側へは由良川となって舞鶴湾へと注ぐ畑郷川が流れだしているのだ。 つまりここは、瀬戸内側と日本海側の分水界の1つということになる。 このことは胡麻駅が山陰線の最高地点にある駅だということも無関係ではないだろう。 しかしこの事実だけでは、ただ分水界というだけで興味が湧くには湧くがそれほど感激するほどのこともない。 しかし、駅の真ん前に鎮座する丸山を絡めたこれらの川の流れの歴史に思いを馳せて見れば、改めてこの地域の土地に刻まれたドラマに接することができるように思う。




 その昔、現在の胡麻川は今の流れの方向とは逆の西に向かって流れていて由良川の水系であったようだ。 そして丸山の周りを迂回しながらくねくねと流れていた。 そしてある時、多分大量の水が川を流れた際に流れは丸山の迂回ルートをやめ丸山の北側をショートカットして流れるようになったのだろう。これが丸山の成因だと思う。 だから丸山の周りの平坦な水田は昔の河道ということになる。 川は丸山の周りを長い年月をかけて流れながら、土砂をなだらかに堆積させたのだ。 そのため、こういった成因の単独峰の小山のことを繞谷丘陵といい、なだらかな丘となっている。 だが、胡麻の街の30㎞ほど東方の亀岡盆地が沈降をはじめると胡麻川の流れは今までとは逆に東方の亀岡に向かって流れを変えることになる。 その流れ始めは今の東胡麻のあたりからで、そういった意味ではほんのわずかではあるが分水界は今よりも東にあったことになる。 また胡麻周辺では付近を走る断層の破砕による、岩屑物の供給が多く、東胡麻から胡麻までの地域は川をせき止められた形で丸山をも取り囲む湖沼と化した。 その水が東胡麻方向に向かって溢流し、分水界は東胡麻から現在位置まで移動した。すなわち、胡麻の集落が今のような形で分水界になったわけだ。 こうやって見てくると長い年月とはいえ胡麻の集落のある場所は、川が蛇行して丘を作るのを見てきたり、川がせき止められて沼になったのを見、また川があるときから流れの向きを逆流するのを見届けてきたことになる。 つまり川の織りなす様々なドラマを真近に、最前列で見てきたのだ。 

 現在の胡麻の集落は「そんなドラマなんて見てきたことなんて、とうの昔に忘れましたよ。」とでも言わんばかりに、いたって普通に装っているどこにでもあるのどかな集落となっている。 私は比高60mほどの丸山に登ってみた。 途中の道すがらに見る丸山周辺の田んぼは初秋の趣を見せており、午後の日差しを受けうっすらと黄色に輝いていた。 頂上には日清日露太平洋戦争に出征し亡くなられた当村出身の人々の慰霊碑がひっそりと佇んでいた。