私は若い頃、がんになったら死ぬもんだと思っていました。大学生の頃、便秘があり、左下腹部に固いものが触れるので、自分で医学書を読み、これは大腸がんに違いないと判断しました。それで、1~2年のうちに死んでしまうのだと思い、恐怖の日々をすごしました。それで覚悟を決めて、大学病院の外科の教授に診察してもらいました。その時、教授はニコッとしておられたので、これはがんではないのだなと思いました。

 その後、ずっと死なずに生きていますので、あれはがんではなかったという事になります。それでも、がんに対する恐怖が消えたわけではありません。がんは治らない病気だと聞いていましたので、がんになったら終わりだと思っていました。

 がんにならないためには、発癌物質を避けることも大事ですが、もう一つ心の面、心理的な面も気になっていました。国立がんセンターの所長が代々、がんになると言う話を聞いていましたから、がんの研究をすることも危険であると思っていました。

 結論的に言うと、がんには関わらないのが一番である と言うことにしたのです。医者になったらがんを避けて通ることは出来ないでしょうが、自分から進んでがん患者を診ると言うようなことはしないのです。でも私は日野先生の弟子として働いていたので、自分の責任でがん患者の診療をすることはありませんでした。

 しかし、日野先生のがんが分かって入院された時は、困りました。私が日野先生が診ていたがん患者を診なくてはいけなくなったからです。がん患者の治療をどうするかで頭の中がいっぱいになり、私の方が倒れて入院してしまいました。入院しても診療を続け何とか切り抜けましたが、問題は日野先生がんになったことです。

 私には納得がいかないことでした。食事療法の大家がなってはいけない病気になったのです。私は自分なりに考えて、日野先生は体が弱かったのに、70歳まで生きたのだから、まあいいかと無理に納得させました。

 それでも、日野先生ががんになったことにより、私の診療内容は大幅に変わりました。私はがんを避けて通ることが出来なくなりました。反対にがんに立ち向かっていこうと言う姿勢になりました。

 日野先生が亡くなった頃、マックス・ゲルソンの著書を翻訳した今村光一さんが松井病院食養内科でゲルソン療法をやって欲しいと頼みに来られました。がんが治るのであればと、私は全力をあげて頑張りました。しかし、思うようには行かず、ゲルソン療法を含めた代替医療を1年半くらいで止めました。

 しかし、それでがん患者との縁が切れたのではありません。ますます深い縁が生じたのです。それは「いずみの会」との縁が生じたことです。「いずみの会」はがん患者の会ですが、この会を指導していた、中山武さんががん患者に食事療法の勉強をさせたいと言う目的で、会員を次々と松井病院食養内科に入院させたのです。

 その結果、私は毎日、がん患者と接することになったのです。私ががん患者と付き合うようになったのは運命だと思います。がんが怖くて逃げていた私が、がん患者を診ることになり、がんとはどのような病気なのかを知ることになったのです。

 私はがんについて情報からではなく、現実から学ぶことになったのです。人からがんが治ると言う話を聞いても、そうかなあと思うくらいで、頭の中には入るのですが、なかなか信じられないのです。

 それでも、自分が診ている患者が良くなったり、「いずみの会」の会員が良くなって治った話を聞くと、治ることがあるのだと思うようになります。それでも治ると言う確信を得たのは治る仕組みが理解できたことでしょう。

 治る仕組みと言うのはアポトーシスのことです。アポトーシスを知って、がんが治ることがあることを知りました。