皆さん、キリスト教に、ヘンな偏見持たないでくださいね。

どうして、クリスチャンになったかお話します・・・。


私は、一般的な日本人の家庭(宗教面で)で育った。

普通に神社でお参りもし、田舎では仏壇に手を合わせもした。

ミッションスクールでもないし、キリスト教の接点は何もなかった。

ただ、小学生のとき、友達に連れられて、教会へ行ったことがあった。

聖書をもらってた。でも、読んだことなかった。



高校時代、ドラマで「氷点」をたまたま観て、感動した。
小学生のとき、教会に連れて行ってくれた友人が、読書感想文で「塩狩峠」について書いてたが、原作者は同じ、三浦綾子さん。

クリスチャン作家だった。読んでみたら、面白くて、はまってしまった指でOK


私は一人っ子なのだが、両親の仲が悪く、反抗心もあって、私は家では口をきかない子だった。否定的なものの見方をする母の愚痴聞き係でもあった。


三浦綾子さんの本を読んで、苦難にめげず、明るく生きていく主人公たちに感銘を受けた。こんな生き方もできるんだ!!!


私も家でちゃんといい子になろうとした。でも、急には変えられなかった。


高3の受験シーズン。進路も決まらず、やりたい勉強もないのに、大学に行くなんてナンセンスだと思ってた。金をかけてもらう価値はないと思ってた。

生きる意味も分からなくて、生きる価値のない人間だと思ってたし、人間は醜いと思って鬱々としてた。



そんな冬のある日、学校でマラソン大会があった。当日、足の甲の裏が痛み、欠席して、医者に行った。

「一週間でなおりますよ~」なんの処置もされなかった。そして、数週間しても治らなかった。体育の授業をさぼってると先生から見られている気がしてた。追走の日が近づいてた。「治らなくても走れよ」そう言われた。前々日か、発熱で学校を休んだ。学校に出てきたら、その日は追走の日。先生に対して、反抗心もあり、「倒れたら、あのセンコーのせいだ」と思って、走った。いや、ビッコ状態で歩き出した。

惨め・・・がまん顔当然、ビリだった。
でも、途中から、横っ腹を押さえた脱落者が出てきた。
その人たちに「大丈夫?」と声をかけることができた。
上から目線でなく、同じ苦しみを分かつ仲間として・・・。
嬉しかった。私の中からいたわりの言葉が出てくるなんて・・・・!!!
いや、そのとき、ふと、上から、天から誰かが見ている気がした。

そのとき「神は愛なり」(聖書)近くの教会にかかっていた看板の言葉が思い出された・・・。
神という存在はあるかもしれない。

全て、命には意味があり、たとえ植物人間でも、神さまがいるなら、その心をご存知で、愛の心が咲くのを望んでいるのかもしれない!!そう考えた。

このまま治らなくても、優しい心がもてるならいいや、と思った翌日。
痛みはなくなっていた。


人は愛するために生きるんだ!私はそう考えるようになった。
そして、罪赦してくれるという存在が本当にいるなら、信じてみたい。

何もない、惨めな人生だけど、神様がいる方に賭けて生きてみたら、世界は変わるかもしれない。

そして、私は社会福祉を志すことに決めるも、時遅く、受験には失敗。
さっぱりしたところで、思い切って、教会へ足を運ぶ。こっそり後ろから見て帰るつもりが、初老の方に見つけられ、案内される。

みんなが歌の練習をしていた。話はいまひとつピンと来なかったが、帰り際、「四つの法則」という冊子を若い人が読んでくれた。
http://www.geocities.co.jp/CollegeLife/8610/

そこで、福音というものを聞き、優等生の答えをして、キリストを迎え祈る祈りをした。

「クリスチャンになった感想は~?」
と聞かれ、私、クリスチャンになったの???という感じだった。

それから、毎週日曜に教会に通ったり、聖書の勉強を一対一で学んだりした。楽しかった。


神様は本当にいるのか?から始まったクリスチャン1年目。
除々に、本当に、生きた神様なんだなあと知る。

肝心のイエス・キリストに出会うのはもう少しあとなのだが・・・・