1945年8月15日をどう捉えるのか? | 大自由の翼のブログ

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今夜はリテラシーマガジンオンライン交流会がありました。



15分遅れくらいで入ったので、冒頭何が話されたのか?が分かりませんが、最初の質問コーナーで、アドラー心理学を学んでいる人に対して、もんなアプローチをすればよいか?という質問がありました。


アドラー心理学は、全ての問題は人間関係によるものだと規定して、自分の課題と他者の課題を分離して、自分の課題解決をすることに集中する。だから嫌われる勇気が必要という考えに立っています。


私も選択理論心理学のベースにもなっているアドラー心理学を少しだけかじったことがありますが、今言えることは、自分と他者の課題を分離して、自分の課題解決を通じて人間関係を改善するという立場で、ある程度成果をもたらすことはできますが、このアプローチでは人間が1番何を解決すべきなのか?という問題意識まで広げることができない、つまり人類共通の課題が何なのか?を知ることができないと感じました。

もっと言えば、人間関係の前に、人間とは何か?生きるとは何か?の問いに欠けていると感じます。

アドラー心理学は自分つまり個人に目を向けているところが、個人主義の範疇を脱することはできないと感じました。


令和哲学者ノジェスさんは、結局アドラー心理学も人間の脳の中、観点の中にいるので、根本解決はできないとおっしゃっていたと理解しています。


また、別の方からはこれまでの地域活性化と認識技術を使った地域活性化とで何が違うのか?という質問が出ました。


ノジェスさんは、平たく言えば、これからはAIがこれまでの人間がやってきたことをほとんど代行できてしまうということを前提に、人間にしかできないことを開発する必要があること、またそのための教育が必要であり、ある地域では、幼少期の教育が世界一だとか、地域性を使った教育で人を活性化させることが必要と言っていました。


これからはAIのことも考えて、教育や地域活性化をしていく必要があるのだと感じました。


ノジェスさんのトークライブは情けないながら、なぜかスッポリ失念してしまったのですが💦、今回も1945年8月15日の再解析の重要性を話されていました。

ロシアとウクライナの戦争や、ハマス、イランとイスラエルの戦争は全く終わりが見えないけれど、日本は天皇の玉音放送で銃を下ろしてしまった。

日本を含めた領土だけでなく、日本の軍隊、世界戦略、精神、そしてアメリカが原爆や焼夷弾を何の罪もない民間人の住む街に投下するという戦争犯罪もなかったこととしてオールゼロ化して終戦させてしまった。これは本当にすごい決断だと思いました。


一方で、国民は、この玉音放送や天皇の人間宣言などで自分達に意思決定権がないこと、そして戦後のアメリカのテレビ📺爆弾で、日本は悪い国だ、戦争犯罪国家と決めつけられてしまったものだから、国民は大切なものを守れなかった、そんな情けない自分たちが一滴の希望を持ってはダメだ、ただもがくだけという考えが無意識に入ってしまったことや、女性が戦争を引き起こした男性を尊敬しなくなってしまったことなどが副作用で起きてしまったことを感じました。


このような無意識の価値観により、責任を取らない日本人が増えてしまっている状態ですね。

ある意味意思決定の基準を見失っている状態なのだなと感じました。


だからこそ、1945年8月15日は単なる敗戦ではなく、核戦争を未然に食い止めて、人類滅亡の危機を救った一面もあるという解析は必要であり、それが日本が日本である理由を理解することにも繋がると感じました。


子供の日の昼間は実家にいて、たまたまオッペンハイマーや戦中の話になったのですが、親は1945年8月15日を日本の敗戦と捉えているようです。


確かにアメリカの武器の物理的量は日本を圧倒していた面があり、あのまま戦争を続けていたら負けていたかもしれませんが、本来日本は人種差別撤廃や世界平和を求めていたし、欧米の植民地政策を見て残酷さを感じていたと思います。

そんなことでは世界平和はないと、やりたくない戦争を敢えてやってきた側面もあると思うし、終戦を日本が選択していなかったら、日本だけではなく世界はどうなっていたか?という視点を持つ必要があると感じました。


団塊世代の敗戦イメージはかなり根強いとも感じましたが、そこを若い世代がどう再解析するのかも大切と感じました。