諸々の出来事 | 大自由の翼のブログ

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最近、ブログを書けていなかったので、ここ数日のことを書きます。


先週金曜日夜は、大学時代の友人が遠方から東京に出てくるということで、懇親会に参加してきました。

メンバーの中には、学生時代から30年ぶりに再会した人もいて驚きました。


海外に赴任していた人もいれば、国内で頑張っている人もいましたね。

私は遠方から来た友人以外はそんなに交流はなかったのですが、私が知らないこともたくさんあって、私の知らない間に何をやっていたのか?や大学を卒業して何をしていたか?を窺い知ることができました。


ただ、懇親会に参加した人の私に対するイメージがバラバラで面白かった。

ある人は、私を真面目だと規定して、不真面目な我々に付き合うのは大変だったのではないか?という話。

ある人は、いいおっさんになったなという人。

また、なぜか私はパートナーにストーカーギリギリのことをして結婚した💒とかいう人もいて。

宴会の席で酔いが回り、話を面白おかしくしたかったのだとは思います。

彼らにとっては、今現在の私よりは学生時代の私の印象が強くて、そこから私というアイデンティティを見ているのだなと感じました。


本当は人間のアイデンティティなんて常に変わっているものなのですが、人間の脳は違いだけを取る、部分だけを取る、過去と繋げてとる、有限化して取り、今ここを認識できないので、当然と言えば当然です。むしろ今現在の自分を知ろうとも思わないだろうし、過去の思い出に浸りやすく、過去の楽しい思い出があれば、それに花を咲かせたい気持ちは出てくるのだろうなと思いました。


また、不思議なことに、懇親会の参加者と一緒にいると、以前の自分のアイデンティティを選択しようとするのだなと思いました(笑)。


以前の私は自分に対しても自分の人間関係にもま自信感がまるでなかったのですが、懇親会でもそんな感じになる。多分これは自己認識もあるけど、懇親会のメンバーの私に対する固定イメージがあるから、そうなるのだろうなと感じました。



話は変わって昨夜は、パートナーとパートナーの親戚親子と夕飯を食べました。

親戚の親から突然「なぜ勉強が必要なのか?勉強の意味と目的とは?」について質問されました。

今思えば、なぜその質問をするのか?をちゃんと聞けば良かったなと思うのですが、私は意見として回答しました。

できないことができるようになるとか、目標を達成する手段を得るとか答えておきましたが、本当に必要なのは、勉強よりは学問だと言い切ります。


なぜなら、学問とは「問いを学ぶ」ものだから。言い換えれば、質問ができるポジションになること、問題意識を持つことです。


親戚の子供は、ゲームばかりして勉強を一切しないそうですが、勉強をなぜするのか?分からないと思っているのに勉強しろ!なぜなら勉強にはこんなに役に立つからだと言いたいのだと思いますが、それを言っても親戚の子供は反応しない気がします。


むしろなぜその子が勉強するのか分からないと言っているのか?とかなぜ勉強をつまらないと言っているのか?じゃあ何の勉強なら面白いのか?とか、ゲームをして何が楽しいのか?など質問することの方が大切じゃないの?と思いました。


それが子供のことを理解することにもつながるし、逆に子供も話を聞いてくれると思って落ち着くのかなと感じました。