木曜日は陽明学を取り上げています。
さて、今回のプレゼンターはなんと私でした😆。
ファシリテーターのりゅうびさんも前回前々回の振り返りでプレゼンをしてくれたのですが、その後、知行合一とは何か?致良知とは何か?そして、この知行合一と致良知を令和哲学で言うと、どんな表現になるのか?などをお話しさせていただきました。
知行合一は、知ることと行うことは一緒という意味で、知ること(学び)と実践は切り離せないというのが本質的な意味になるのですが、これを分かりやすく言うのがなかなか難しくプレゼンでは説明しきれませんでした。例えて言うなら、今自分が考えていることも行為ではあるし、学ぶこと自体も行為、実践。そして実践すること行動することで学びを得ることができるということになります。
ただし、知行合一となった時に、知とは何なのか?という疑問が生まれます。
そこで致良知という陽明学ならではの言葉が出てきます。
朱子学でも陽明学でも「知」という言葉は出てくるのですが、朱子学と陽明学の知のイメージはまるで違います。
朱子学の知は、そのまま知識とか知恵になりますが、陽明学の知は「心」と定義します。
なので、朱子学は、知を致すとは、知識を推し究めて全てを知り尽くすと表現して、陽明学は、心に本来備わっている良知を拡充、発揮することと表現するのですね。
そして、陽明学はこの良知を徹底に追求するので、致良知という言葉が出てきます。
致良知とは簡単に言えば、人間が本来備えている心そのものに回帰して、その心から歓喜で満たされる状態、完全無欠になるという表現になります。
ただ、陽明学はこの「良知」のイメージを王陽明だけでなく一般の人にも理解できるような言葉で表現することができなかったようです。
現に私が見た文献でも、良知に対して王陽明が様々な表現を使っているのですが、この誰もが理解できる表現ができなかったことで、弟子たちに良知のイメージを正確に伝達できず、弟子たちが大論争をするということがあり、結果王陽明の死後に、陽明学が分派してしまうということが起きてしまいました。
この点、令和哲学は、一の定義、心の定義が明確にできる、その裏にはアナログ言語の限界とデジタル言語の開発を通して、陽明学で言う良知もシンプルにまとめることができるなと感じました。
そんなプレゼンをさせていただき、AI時代の知行合一の生き方を具現化するための必要な条件とは何か?についてディスカッションしました。
まとめとしては、知行合一といっても、一体まず人間として何を知るべきなのか?を明確にすることが大切。私がそれを正しい知を知るという表現をさせていただきました。それが分かった時に、人間の現在地を知ることができ、実は何も知らないことがわかる。そこから追求して完全知に到達した時に、悟りを得た状態から、悟っているのとそうでない状態を理解できる、そして、最終的には完全知から、遊び感覚やゲーム感覚で行動につながる。そして知行合一が完成するし、AI時代の知行合一になるという整理になりました。
ノジェスさんのまとめは、あまりにも壮大すぎてまだ理解がついていっていないのですが、朱子学は事物を徹底的に追求して事物がなくなるまで本質を追求していくのでなかなか難しいこと、それに対して、陽明学は事物も自分も人間も全て心だ!と言っているので、1のディファインや151デジタル言語もない状態ではあったけど、感覚的にはSAMURAIに受け入れられやすかったよねという話が印象的でした。
そして、151デジタル言語、心のロゴスを使えるようになった時に、言い換えばバスの外から見るのではなく、バスの中で運転するようになった時に、知行合一ができるようになるという話も印象に残りました。