言語の問題と観点の問題 | 大自由の翼のブログ

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今夜は、SAMURAI道場とゆるっと読書会に参加していました。


SAMURAI道場では、このところ真の問題意識に接続する11ステップについて深めています、



この内容は認識技術の中でも基本中の基本になるので、私は概要はもうほとんど覚えているのですが、今回振り返りをしていて、これを日常生活に完全に落とし込めていなかったり、そもそも理解に穴があるなと思ったりしていて、改めて基本に戻って反復することの大切さを実感しています。


今回の道場では、言語にフォーカスを当てていますが、一般的な考えとして、存在があって感覚があって言語があると思います。

でも、本当は、最初に言語があって、その言語に付随して感覚が生まれ、存在を認識する。そこから思考が生まれて、感情が生まれて、関係性が生まれて、リテラシーが生まれるという具合に、最初の出発が実は言語というのが見逃されがちですね。

確かに例えば、りんご🍎という言語があるから、りんごの感覚になり、りんごという存在を認識します。もし、りんごという言葉がなかったら、その感覚はないし、存在は認識できない。

何か五感覚脳が認識する何かがあるけど何かが分からないという感覚にはなりそうです。


そして、問題はこの言語、特に主語述語言語は不完全であるということ、だから感覚も不完全、存在も不完全・・・、という流れになる。

しかも、存在が当たり前を前提としている言語なので、存在の本質を明確にできない限界を持っていることを改めて実感しました。


まさに世界の限界=理解の限界=言語の限界ですね。

151デジタル言語は、存在の本質を明らかにしてしまう言語なんだと改めて実感しました。



その後、ゆるっと読書会に参加。



かなりお久しぶりの方も参加しました。

今回もNOUの動画で、観点の問題を克服するためには?を視聴しました。

観点の問題を克服するには、観点の次元上昇が必要という話が印象的でした。


物理的にも次元が上がることで、自由度は増しますが、観点の次元上昇は物理的な次元上昇とは比較にならないほどとんでもないものだと思いました。

植物は大地に固定されますが、人間は脳に固定されていますよね。その人間の脳の固定から自由になる、一つの観点固定から観点ゼロになり自由になれば観点♾に行くことができる。最高に自由な世界だなと感じます。が、完全自由だけど、一つの動きしかないので、無間地獄というのがミソなのですが、ここは動画ではまだ説明していないので、ここまでとします😁。


参加者の一人が気持ちがモヤモヤしているということで、相談教室みたいになりましたが、久しぶに参加した人は、「こうして手軽に相談して相談に乗ってくれる人がいるのがゆるっと読書会の良いところ」と言っていて、あ、そういう雰囲気があるところなんだなと気付かされました。