《Another Prologue》-3-
その声にはとても聞き覚えが合った。
顔を見なくても、誰が呼んでいるのかすぐに分かる。
分からない訳が無い。
だってその声は主は――――。
私の、
「兄……さん」
お父さんとお母さんが死んだ日の事は生涯忘れる事が出来ないだろう。
つい数時間前まで会話していた人達が、もう二度と届かない所へ行ってしまう。
人の命が失われるのが、こんなに簡単に起こる出来事だなんて思っていなかった。命はとても大切な物で、命は簡単には失われない物で、皆歳をとって皺くちゃになるまで生きているんだと、そう思っていた。
お父さんとお母さんの死体は直接見ることは出来なかった。交通事故にあって、身体が元気をとどめていなかったそうだ。グチャグチャでバラバラでめちゃくちゃで。
病院で治してもらってよ、と頼む私に、どんな病院でも元に戻してもらうことは出来ないのだと、お祖父ちゃんが本当に辛そうな顔で言っていた。
お兄ちゃんはお父さんとお母さんの入った棺を見て涙をポロポロ零していた。
気付いたら、同じように私も泣いていた。
その日から、世界の全てが色褪せて見えた。
お祖父ちゃんとお祖母ちゃんの家に引き取られ、そこで暮らすことになった。
家とは違う匂い。家の中にはお祖父ちゃんとお祖母ちゃんとお兄ちゃんがいて、お父さんとお母さんはどこにもいなかった。
お祖父ちゃん達の家に来てから、私は泣くのをやめた。代わりに笑みを浮かべて、常に楽しそうにして、勉強も運動も頑張った。
凄く辛くて苦しくて悲しいのに、弱い所を見せちゃ駄目だと思った。
頑張って頑張って頑張って、頑張らないといけないと思った。
弱音を吐いたり、涙を流したりしたらいけないと思った。
色褪せた世界で生きていくには、頑張って明るく振る舞わないといけないと思った。そうしないとどうにかなってしまいそうだった。
誰にも相談できなかった。
クラスメイトや先生は「お父さんとお母さんが亡くなったのに、頑張っていて偉いね」なんて言っていた。
違う。
そうじゃない。
本当の事を言おうとしても、喉から外へ出ようとしなかった。
何が何だか分からなくて、意味が分からなくて、何で自分は生きていて、お父さんとお母さんは死んじゃって、本当の事が口から出てこなくて、みんなグチャグチャで。
そんな状態の私を救ってくれたのが、お兄ちゃんだった。
―
その日の事も、私は生涯忘れることは出来ないだろう。
「もう無理しなくていい」
今にも泣きそうな顔で、お兄ちゃんは私にそう言った。
お兄ちゃんが何を言っているのか最初は分からなかった。
「無理なんかしてないよ?」と言葉を口にしている時に、お兄ちゃんの言っている意味が理解できた。
もういいんだ、と何回も言うお兄ちゃんに、私の口から出てくるのは嘘の言葉。
また自分は本当の事を言えないのか。
そんな私の嘘の言葉をお兄ちゃんは無視して、私の身体を抱きしめた。
――もう頑張らなくていい。
――もう無理しなくていい。
――今まで気付いてやれなくてごめんな。
――これからは、お前の辛いのを俺も一緒に背負うから。
『栞は俺が守る』
その言葉を聞いた時に、涙をせき止めていた何かが壊れて、私は大声を上げて泣いた。
私を抱きしめて、頭を撫でてくれたお兄ちゃんの温かさ。
私はその日、お兄ちゃんに救われた。
それまで頼りなかったお兄ちゃんは、それから一切の頼り無さを捨てた。
私の為に全てを頑張ってくれた。
私が困っている時は全力で助けてくれた。
だけど。
私がいけなかったのだろうか。
お兄ちゃんが私の為に全てを堪えて、飲み込んで、隠して、頑張っている事を知っていたのに。
私には何も出来なかった。
高校に入ってから、人間関係が上手く行っていないのか、辛そうな表情をしているのを見ていたのに。
勉強が思うように伸びなくて、それでも夜遅くまで頑張っているのを知ってたのに。
お兄ちゃんが頑張っているのを知ってたのに、私には何も出来なかった。
切っ掛けは、お兄ちゃんが志望大学に落ちたことだった。
『あんなに努力していたのに、なんで俺が落ちないといけないんだよ』。
お兄ちゃんは呟いて、部屋から出てこなくなった。
今まで溜め込んでいた物を吐き出すように、お兄ちゃんの言動は荒んだ。
私が声を掛けても、今までのように返してくれることは無くなった。
その頃からだろうか。
私が『お兄ちゃん』じゃなくて、『兄さん』と呼び始めたのは。
私を救ってくれた『お兄ちゃん』は居なくなってしまったのだ。
兄さんは私の話を聞いてくれなくなった。
最初は話しかけていた私も次第に何も言わなくなった。
私は兄さんを見捨てたんだ。
―
外見はあまり弄っていないのか、兄さんは伸びた髪以外は現実とほぼ同じ容姿をしていた。一目見るだけで兄さんだという確信が持てる。
これと言った特徴は無いが整った顔付きはどこか疲れており、175センチ程ある身長は猫背になっているせいかいつもより低く見えた。
何か合ったのだろうか。
落ち込んでいる風の兄さんの装備を見て、私はその原因に気が付いた。兄さんが装備していたのは太刀だったのだ。恐らくはその太刀が原因で何かが合ったのだろう。
「兄さんって……太刀使い……」
ドルーアが何かを言ったが、私の耳には入らなかった。
私はただ真っ直ぐに兄さんを見つめる。兄さんはそんな私の視線に、怯えた様に一歩後ろに下がった。その姿を見て、何故か私の胸にどうしようも無い衝動が生まれた。
「現実でも邪魔な貴方は、ゲームの中でも邪魔だったみたいですね。誰ともパーティを組んでもらえなかったみたいですが、当然です」
ここまで言った時、私は冷静さを取り戻した。私の言葉を聞いた兄さんの顔が、今にも泣きそうに歪んだからだった。次の言葉を言ったら、もう兄さんとは会う事は二度と無いのではないかという予感が私の胸をよぎる。だけど言葉を飲むには遅すぎて、私はそれを口にしてしまった。
「私達も貴方をパーティに入れるつもりはありませんので。話し掛けないで下さい」
決定的だった。
兄さんの顔に浮かんだのは絶望。今にも倒れこんでしまいそうなほどに顔を真っ青にして、口を半開きにしたままただ私を見ている。
ドルーア達が私に声を掛けてくるけど、私は兄さんの視線に耐え切れなくなって、早足で兄さんの隣を通り過ぎた。兄さんは棒の様に立ったまま何も言わず、私が立っていた場所をただ見つめている。
私は悪くない。兄さんが悪い。約束を破った兄さんが悪い。
心の中でそう叫ぶけれど、胸が締め付けられるように痛いのが治らない。ここで兄さんを見捨ててしまったら、あの人は生きていけるのだろうか。兄さんはゲームが上手だ。だけど絶対じゃない。パーティを組んでくれる仲間もいない。ソロで行動してモンスターに殺されてしまったら。兄さんは本当に死んでしまうかもしれない。
今ならまだ間に合うかもしれない。
だけど私の足は止まらなくて、ただ逃げるように歩き続けた。
そして、それから私が兄さんを探そうと思った時には、もう兄さんはどこにもいなかった。
――
アカツキが《ブラッディフォレスト》に落ちる少し前の話でした。