あるあけぼの、独房に響く看守の足音。牧師が近づいてくる。
「神を信じるか?」
「ノン」
 やがて、あかつきの光に映えるあの鋭い刃の下で、私は問われる。
「言い残すことはないか?」
 私は答えよう。
「喰い足りない」
(p.22)





昔から何度も読んでいる、佐川一政著「パリ人肉事件ー無法松の一政ー」。


犯罪者の書く本を読むと、その犯罪を容認しているのか?というような世間の問いかけが必ずと言っていいほどついてまわります。それについて、私は神ではないので、個人的な「許せない、非人道的だ、死刑になるべきだ、正しく裁かれるべきだ、いや、裁かれてもまだ足りない」などの怒りの感情を別とすれば、どうこう言う権利は自分にはないと思っています。


同じ人間として、その行為を容認はもちろんできない。
しかし本を出してその体験をお金に変えることを、一概に否定できるかといえば、口を閉じるほかありません。
だって私は、読みたいと思ってしまう人間だから。


人がみな平等に成長し老いていくなか、その過程で道を踏み外し凶行に至ってしまった一握りの人間の、頭の中を見てみたい。自分が歩まなかった人生を覗いてみたい。そう思うのはおかしいことでしょうか。


それはある意味では被害者を冒涜する行為なのかもしれません。でも犯罪はいつの世もなくならない。そもそも地球上に人間がいる限り、完全になくなるわけがない。今回の一冊で言えば、もしかしたら自分の隣のアパートの住人が佐川一政かもしれない。そういう可能性は大いにあります。日々その満たされない食欲を持て余し、廊下ですれ違い挨拶をするたびにうまそうな肉だと思われているかもしれない。とうとう明日殺されて生のまま喰われるのかもしれない。


そういう人間がほんの一握りでも存在しうる現実を、私たちは知る権利があると思っています。犯人を肯定しているわけじゃない。被害者を冒涜したいわけじゃない。犯人への憎しみや被害者の冥福を祈るのとはまったく別の次元で、真実に限りなく近いことを知りたいという欲求。その手段があれば、私はこれからもどんどん読む。そして考えるのです。ただずっと、人間の奥深さを。