語学指導で大切なのは会話か?それとも文法か?~現在の英語教育を、国語教育を踏まえて考えてみる~ | 江東区の家庭教師&ライターのみみずく~半蔵門線・大江戸線沿線及びオンラインで指導中~

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以前からとてもお世話になっているMottoさん↓


<モットーの応用脳力学> 脳を知り、脳を使う為のブログ。 脳を知る事は己を知る事。 「脳力を 知って使おう 自己啓発」


いつも大変有益なコメントをくださいます。


Mottoさんのコメントには、

僕自身とても考えさせられますし、

他の読者さんにとっても勉強になるはずです。


Mottoさんのようにコメントをくださる方々のおかげで、

僕の拙いブログが存続していると言っても過言ではありません。


本当にありがとうございます!!


さて、先日、こちらの記事

Mottoさんがコメントをくださいました。

一部引用させていただきます。


受験英語だな~とおもいますね。

受験にはこれが必要なんだと言う事は分かりますが

良し悪しではなくて、

結果的に「これじゃあ喋れなくなるな~」と言う思いです。


全くおっしゃる通りです。


実は、僕が重視する文法指導に対して、

Mottoさん以外の方々からも

同様のご指摘をしばしばいただきます。


同業者の方や保護者様の中にも、

「学校の英語は文法ばかりで使えない」

「受験英語では喋れないし英語を嫌いになる」

などとおっしゃる方々がいらっしゃいます。


いずれのご指摘もごもっともです。

そうした方々に対して、

僕は常に次のように言い続けています。


「僕が指導している英文法は、

あくまでも試験で点数を稼ぐためのものです。

実用英語が上達するとか、英語が好きになるとか、

そういうことに関しては一切考慮していません。

極端なことを言えば、

『英語を喋れないし、英語は大嫌い!

だけど、英語の試験では高得点を取れる!!』

というふうになっても構わないと思っています。

試験で点数を取る以上のことを望む生徒は、

英会話学校に通うなり留学するなりして、

自分で別の勉強をしてほしいですね」


これは、僕の指導方針です。


ただ、たとえ「試験で点数を取る」という観点を置いておくとしても、

「現在の学校教育では

実用英語(会話など)が上達しない。

だから、学校でも、

文法英語ではなく英会話などを重視すべきだ」

という(よくある)意見に対して、「それは違う」と僕は考えます。


僕の考えの根底には、以下の思いがあります。


喋れればコミュニケーションが成り立つ、

というのはまやかしである!!


ある生徒が次のように言います。


「外国に行けば、単語を言うだけで話が通じます。

それなのに、文法を学ぶ意義が分かりません!!」


それに対する僕の回答は次の通りです。


「何かちょっとしたことをしてほしいとか、

そういうレベルであれば単語の羅列でも十分だよ。

日本語だって、『塩、取って、そこ』でも塩を取ってもらえるしね。

でも、そのレベルのやり取りを以て、

『コミュニケーションが成り立っている』と考えるのは間違いだね。

単語の羅列で成立するやり取りだって

コミュニケーションの一部なのは確かだ。

でも、ちょっと考えてみてほしい。

全ての会話が『塩、取って、そこ』レベルの人と

君は長く付き合っていきたいと思うか?友達になりたいか?

お互い思いを正確に伝えられない関係では、

信頼関係を構築していくようなコミュニケーションは成り立たないだろ?

僕たちが語学を学ぶ先にあるのは、

『塩、取って、そこ』レベルのことができるってことじゃない。

たとえば親友の気持ちを察して適切な言葉をかけられるとか、

ビジネスにおいて正しく文言を解釈して契約を結ぶとか、

そこまでを目標とすべきなんじゃないかな?

そう考えたとき、

文法はメチャクチャで単語を羅列するだけ、で通用するの?」


今の日本の英語教育を全面的に肯定するわけではありません。

難解な文法用語を振り回したり、

重箱の隅をつつくようなことばかりしたりしていては、

僕が考える語学の目標からも遠ざかってしまうからです。


だからといって、文法英語を全て否定してしまうと、

日本人の英語力が更に悲惨なことになると思います。


その実例として、

小学校で導入された英語の授業を考えてみます。


最近、小学校で英語を習っている小学生が

アルファペットすら書けないことに衝撃を受けました。

その生徒は、次のように言っていました。


「学校ではクイズ形式で英会話をしているだけ」


もはや何のために英語の授業をしているのか分かりません。

文法英語を否定する方々が理想としているのは、

こういう授業が中学以降でも展開されることなのでしょうか?


もっとも、上のレベルの英会話であっても

量をこなすことによって何とかなる場合もあります。

ただ、日本語を母語とする日本人が、

限られた時間の中で、

外国語として英語を習得する上では非効率的です。


それに、どんなに量をこなしたところで、

できることには限界があると思います。


それは、英語を離れて国語(=日本語)を考えれば分かります。


日本の国語教育は特殊です。


大分前にこちらの記事 で書いたことですが、

日本の国語の授業は

実践では何の役にも立ちません!!


「国語≒道徳」という勘違いをしている指導者が多いです。

「国語は技能科目」と言いながら

「言葉への気づき」などと曖昧にごまかすA教授もいます。


だから、国語の授業では、

文章の正確な読み方や文の組み立て方、

論理的な思考方法、作文などの書き方も教えないんですね。


いや、これらのことを教えてはいるようですが、

その扱い方が好い加減過ぎて

「国語でできるようになったのは漢字だけ」

と言う子どもたちが量産されるわけです。


結果として、多くの子どもたちは、

「国語が分かんない~」

「国語の試験で点数が取れない~」となります。


試験での結果と実用面での国語力とは

分けて考えるべきだという意見もあるでしょう。


でも、国語の試験で点数を取れない生徒の多くは、

日常生活での国語力にも何らかの問題を抱えています。


・相手の言っていることを理解できない。

・自分の伝えたいことを相手に伝えられない。

・長めの文章を正確に理解できない。

・文法的にメチャクチャな文章を書く。

・論理的な思考をすることができない。


彼ら・彼女らは普通に喋れますし、

最低限の意思疎通に支障を来すことはありません。

でも、ちょっと状況が複雑化するだけでフリーズします。

言葉を理解できないから「まあ、いいや」と投げやりになります。


そうした人々が増加しているからこそ、

今の日本社会が停滞しているのではないでしょうか?


この問題の背景には、

社会全体の国語力低下もあると思います。


再度、Mottoさんのコメントを引用します。


英語が母国語のアメリカでも

子供のしゃべる英語は文法的にはめちゃクシャ。

日本語でも同じで子供の日本語は奇妙奇天烈。

それを繰り返し直されて感覚として覚えて行くんですよね。

理屈じゃあないんです。 


こちらも全くその通りです。


ただ、このような理想的な言語習得が可能なのは、

子どものメチャクチャな言葉を

直せるだけの国語力が

社会に備わっている場合だけです。


Mottoさんが教育を受けられた時代は、

戦前教育を受けた大人たちが社会の中心だった時代。

社会全体に、

子どもを指導する国語力が備わっていたと考えられます。

学校の国語教育にそこまで期待しなくとも良かったのでしょう。


一方、現代日本では、

そうした国語力が失われているように思われます。

現在、社会の構成員たる大人たちは

どれほど正確に日本語を運用できているのでしょうか?


社会に子どもを教育する能力が無いなら、

教育の中心はやはり学校が担うことになります。


その学校の国語教育が旧態依然であるため、

「国語ができない」子ども達が増加しているとも考えられます。

この子ども達が大人になると

「喋れるけど……」状態が露呈し問題がより深刻化します。


正確なコミュニケーションを取れなければ、

そこには無用な軋轢や諍いが生じます!

そうした事態こそ、社会全体の損失です!!


日本の将来を憂えるからこそ、

現状の国語教育を根本的に改めるべきだと僕は考えます。


その具体的な方法として、

現在英語教育の中で

行われている文法指導の一部を

国語の授業にも導入するというものです。


たとえば、

主語・述語の把握や品詞の区別、

文法規則に基づいた文の書き換え、

要約の作成法、作文の書き方など……

これらを徹底的に教え込む必要があります。


「いや、それらは既にやっている!」


そうおっしゃる国語指導者もいらっしゃるでしょうが、

今のやり方では不十分過ぎます!!


現在の国語教育では、

文学作品の鑑賞に膨大な時間が当てられています。

その時間をもっと文法指導に回すべきです。


何とでも解釈できる箇所で生徒に意見を言わせて、

「そういう意見もあるね」で終わっている指導(?)を止めましょう。


「文法的に見ると、君の言いたいことは伝わらないよ」

こういう客観的な指標で子どもの言語能力を測りましょう。


……ということを言いたいですね。



話が英語から国語に移ってしまいました。

結論として僕が言いたいのは次のことです。


学校の英語教育を実用英語重視にしてしまうと、

社会に子どもを教育する能力が備わっていない以上、

現在の国語教育と同じ過ちを繰り返すことになる。

だから、今の文法重視の英語を維持しつつ、

方針や方法を見直す程度に留めるべきである。



この考えが、

Mottoさんのおっしゃることと矛盾するとは思いません。

社会における実践の中で言語感覚が向上していく、

というのが本来の在り方であるのは確かですから……


ただ、現在の日本社会を見る限り、

理想だけではどうにもならないのではないか、と考えるわけです。


僕の意見が正しいのかどうかは分かりません。

一つの見解として、このブログ上で公開します。


読者の皆さんも、是非考えてみてください。


※急いで書いたので筋が通らない文章になっているかもしれません。

 後々、記事を手直しするかもしれませんので、ご了承ください。