どーも、よろず屋Ω。です。
今日も雪が降りました。
寒いです。
今日は【1862(文久2)年、「新選組」の前身「壬生浪士組(壬生浪士隊)」が結成された】ということで新撰組の日らしい。
よろず屋はるろうに剣心から入って
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- 新選組血風録 (角川文庫)/司馬 遼太郎
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こんなのを読みました。
従姉妹が司馬遼太郎とかの幕末物が好きでそれを借りて一気に読みました。
やっぱ、素晴らしい作品はかなり昔に書かれているけど今読んでもすごくおもしろいと思う。
※ここから先は携帯小説が好きな方は気分を害するでしょうから読まないで下さい。
よろず屋は携帯小説という物があまり好きでなく(むしろ嫌いで)何故どれも似たような内容しか書かれていなく言葉という物を正しく使えているかどうかすらも怪しいものがあんなに人気なのか正直理解できない。
携帯小説ばかり読んでいる輩は同じような内容ばかりで飽きないのだろうか?と問いたい。
また、それを好んで読み漁っている輩は『泣ける』とか『感動した』と口にしているように思う。
いったい何がそんなにいいのだろうか?
『泣ける』というのはあまりにも語彙が貧弱すぎることに泣けるのだろうか?
『感動した』というのはあまりに同じ内容の作品ばかりなのに『盗作だ』と言われない著作権的に優しいことに対して感動したのかだろうか?
今そんなことを口にしているたくさんの人々は十年後に読み返したとき『泣ける』とか『感動した』とか口にできるのだろうか?
やはりいい小説というのはよろず屋的には司馬先生の作品のような何十年経っても『おもしろい』と言えるものだと思う。