大神神社
社格・旧県社 式内社 論社
鎮座地・栃木県栃木市惣社町477
御祭神
倭大物主櫛𤭖玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)
別命・三輪明神
大物主・大国主と同一神と考えられ大黒天としても祀られる神です。
配祀:瓊瓊杵命・木花開耶姫命・大山咋命・彦火々出見
大神神社、その歴史には複数の説あり、また、謎も多い神社なのでよく判りません。下記に「栃木県神社庁」「Wikipedia」より概要を転用させて頂きましたので、これを参考としてください。o(_ _*)o
最初に到着したのがこの参道でした。(本殿裏手の参道)
時間は午前10時頃だったと思います。この清々しくもあって、神秘的な参道を見て「しびれ○○」になるほど驚きました。(一驚き)
上古の歴史、文学などの夢とロマン溢れる下野国を代表する神社。
口碑には崇神天皇48年創建とあり、『延喜式』にも載る伝統ある神社。下野国府の至近に鎮座し、下野国の惣社(そうじゃ)という格式を持つ。春は五穀豊穣を占う流鏑馬神事、秋には安産子育・醸造祈願の御鉾祭(おぼこまつり)が古来より行われている。
鎮座の地は歌枕として名高い「室の八嶋(むろのやしま)」であり、勅撰集・私家集などに幾多の歌が詠まれている。俳聖とされる芭蕉の「奥の細道」や、その他「慈元抄」「神道集」「袋草子」「浅間御本地開来」など多くの文学作品に数々の伝統が登場する。境内の池には八つの島が浮かび、それぞれに御社が配されるという珍しい景観であり、現在でも「水煙の名所」として、多くの俳人・歌人が訪れる。
(栃木県神社庁より)
こちらが表参道かと思われます。
(下記はWikipediaより)
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国都賀郡 大神社」の記載があるが、当社をそれにあてる説がありその論社とされている。
また、古代の国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。当社の南方約2.8kmの地には下野国庁跡も発掘されている。
平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。しかし戦国時代に、皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年(天和2年)に現在の形へと復興したという。
しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。「実際のところは、都から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。
明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年(大正13年)に社殿の大改修、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。
境内
まず境内に入って驚いたのは、その境内社の数です。・・・はっきり言って、一度の参拝では覚えきれませんし、冷静になんていられない位の衝撃で、この時の記憶がかなりと言っていいほど飛んでしまいました。・・・ゴメンチャイo(_ _*)o
境内社全てではありませんが、持っている画像を全て載せてみます。・・・飽きたらスルーして下さいまし。
境内左手にある「室の八嶋」
数多くの詩が創られた舞台になったところです。各小島には神橋が掛けられており、そこを渡って参拝をして行きます。・・・小さな宇佐神宮みたいです。!
神楽殿
こんな感じでやっと拝殿です。
大正に改修された社殿は流石に傷みも激しく、昔、栄えたという面影も消えかけている。
御本殿
あ、境内社、まだあります。(瑞垣内等)
御朱印
当神社は無人、社務所には張り紙に電話番号が書いてありました。
ん?私?余韻を楽しみたかったので電話はしていません。・・・しかも再訪する気満々だったので(*^^)v
それにしても画像ばかりで何も伝わらなかった大神神社となりましたが、
次の機会、再訪では頑張ります。o(_ _*)o
と、言うより、興味があったら一度来訪してみたら如何でしょうか?一緒に「しびれ○○」になりましょう
(^_^;)

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雑なブログになってしまい、心よりm(u_u)mm(u_u)mm(_ _ )mです。
社格・旧県社 式内社 論社
鎮座地・栃木県栃木市惣社町477
御祭神
倭大物主櫛𤭖玉命(やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)
別命・三輪明神
大物主・大国主と同一神と考えられ大黒天としても祀られる神です。
配祀:瓊瓊杵命・木花開耶姫命・大山咋命・彦火々出見
大神神社、その歴史には複数の説あり、また、謎も多い神社なのでよく判りません。下記に「栃木県神社庁」「Wikipedia」より概要を転用させて頂きましたので、これを参考としてください。o(_ _*)o
最初に到着したのがこの参道でした。(本殿裏手の参道)
時間は午前10時頃だったと思います。この清々しくもあって、神秘的な参道を見て「しびれ○○」になるほど驚きました。(一驚き)
上古の歴史、文学などの夢とロマン溢れる下野国を代表する神社。
口碑には崇神天皇48年創建とあり、『延喜式』にも載る伝統ある神社。下野国府の至近に鎮座し、下野国の惣社(そうじゃ)という格式を持つ。春は五穀豊穣を占う流鏑馬神事、秋には安産子育・醸造祈願の御鉾祭(おぼこまつり)が古来より行われている。
鎮座の地は歌枕として名高い「室の八嶋(むろのやしま)」であり、勅撰集・私家集などに幾多の歌が詠まれている。俳聖とされる芭蕉の「奥の細道」や、その他「慈元抄」「神道集」「袋草子」「浅間御本地開来」など多くの文学作品に数々の伝統が登場する。境内の池には八つの島が浮かび、それぞれに御社が配されるという珍しい景観であり、現在でも「水煙の名所」として、多くの俳人・歌人が訪れる。
(栃木県神社庁より)
こちらが表参道かと思われます。
(下記はWikipediaより)
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国都賀郡 大神社」の記載があるが、当社をそれにあてる説がありその論社とされている。
また、古代の国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。当社の南方約2.8kmの地には下野国庁跡も発掘されている。
平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。しかし戦国時代に、皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年(天和2年)に現在の形へと復興したという。
しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。「実際のところは、都から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。
明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年(大正13年)に社殿の大改修、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。
境内
まず境内に入って驚いたのは、その境内社の数です。・・・はっきり言って、一度の参拝では覚えきれませんし、冷静になんていられない位の衝撃で、この時の記憶がかなりと言っていいほど飛んでしまいました。・・・ゴメンチャイo(_ _*)o
境内社全てではありませんが、持っている画像を全て載せてみます。・・・飽きたらスルーして下さいまし。
境内左手にある「室の八嶋」
数多くの詩が創られた舞台になったところです。各小島には神橋が掛けられており、そこを渡って参拝をして行きます。・・・小さな宇佐神宮みたいです。!
神楽殿
こんな感じでやっと拝殿です。
大正に改修された社殿は流石に傷みも激しく、昔、栄えたという面影も消えかけている。
御本殿
あ、境内社、まだあります。(瑞垣内等)
御朱印
当神社は無人、社務所には張り紙に電話番号が書いてありました。
ん?私?余韻を楽しみたかったので電話はしていません。・・・しかも再訪する気満々だったので(*^^)v
それにしても画像ばかりで何も伝わらなかった大神神社となりましたが、
次の機会、再訪では頑張ります。o(_ _*)o
と、言うより、興味があったら一度来訪してみたら如何でしょうか?一緒に「しびれ○○」になりましょう
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雑なブログになってしまい、心よりm(u_u)mm(u_u)mm(_ _ )mです。

























