海南神社

社格・旧郷社

御鎮座・神奈川県三浦市三崎4丁目12-11

社務所.046-881-3038

御祭神・藤原資盈公(ふじわらすけみつこう)

                 ☝読めませんでした、知りませんでした。(^_^;)

由緒沿革

 御祭神・藤原資盈公は、天児屋根之命之の苗裔である。九州太宰少弐広嗣の五代の孫に当り、五十六代・清和天皇の御宇、皇位継承争いに関係した伴大納言善男の謀挙に荷担しなかった為、讒訴で追討の罪を蒙って筑紫の配所に航する途中、暴風に遭遇して貞観六年(八六四)十一月一日父子三人、郎党五十三人は当地に着岸した。(公の嫡男の船は房総半島に着岸し、現在の鉈切大明神は資盈公の嫡子を祀ると伝えられる。)






海南神社





その後、資盈公は土地の長に推戴され、房総の海賊を平定し、郷民を教化して特に漁業の知を開き、文化の礎を築くなど福祉に努力したので、郷民の尊崇の念も篤く、貞観八年(八六六)に公が歿すると、その亡骸を海に沈め、祠を花暮海岸に建立して祀った。





海南神社






その後、承応二年(一六五三)三月、正一位(吉田家神道の宗源宣旨)に進められ、享保四年(一七一九)三浦半島の総鎮守となる。明治六年郷社に列し、同四〇年神饌幣帛料共進神社に指定された。 



☟【社頭・左右に鎮座する境内社】☟☟☟

海南神社


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社頭の狛犬は、己の病む個所に相当する部分を撫で、その手で患部をこすると癒るとされている。




海南神社






*神楽殿*



海南神社



*追記*

◎平安時代の頃、三浦為継は社領を寄進し、社頭を改築し、後、三浦家の祈願所とした。尚、三浦大介義明は氏神である当社参拝の折、「神事狐合」(白と赤の狐が闘い、白狐が勝った)で源平の争覇を占い、神意により源頼朝側に荷担したと伝えられる。







海南神社



*御神木*

境内には頼朝公手植えと伝えられる公孫樹(樹齢約八百年)が神木として雌雄の二株が保存されているが、乳根のある方に乳の足りない女が祈りをこめて触れると乳が出るようになるといわれている。又御手洗池に架する神橋の擬宝珠は、三崎御船奉行・向井左近将監忠勝が寛永十七年(一六四〇)に奉納したものである。



海南神社



御神木の根元に祀られている、陶器の狛犬と、神楽殿に掛けられている、神話の絵画。(日本武尊(上)海幸彦・山幸彦(下))




海南神社






*本社殿*





海南神社








*御本殿*





海南神社





神馬舎

木造の白馬が祀ってある。昔神社の神馬が逃げ出し町内で死んだ。たちまち疫病が蔓延したので白馬を奉納したところ疫病も鎮まったという。また、この馬に祈ると脚気がなおるといわれている。





海南神社





相州海南高家神社

祭神磐鹿六雁命は日本書紀(七二〇年)第十二代景行天皇が、悲劇的な最後をとげた日本武尊、東征の跡を偲んで、三浦半島から安房上総に巡行された時、天皇の料理賄方を司った神様です。  







海南神社






後に宮中にあって大膳職の長となり、わが国における料理の祖神として食にかかわる人々に崇められています。

(南房総市千倉町南朝夷164に鎮座する高家神社は、唯一料理の神を祀る神社として有名)





海南神社






*福徳稲荷神社*




海南神社





境内には他に、水神社・金比羅社なども祀られ鎮まっています。境内は広さの割には見所が多く、限られたスペースに上手く凝縮されて造られているといった感じです。





海南神社





また、参拝は早朝という事もあり、少し神秘的な雰囲気を醸し出してはいましたが、空気がよくない。・・海沿いで、朝から蒸していて、不快指数が高かったとかと思います。・・・よくないとはそういう事です。変な意味では御座いません。m(_)m












*御朱印*



海南神社






*高家神社御朱印*←こちらから言わないと貰えない(^_^;)




海南神社





御朱印は、宮司さん自宅兼社務所(境内)で拝受。  




海南神社





◎京急久里浜線三崎口駅から京浜急行バス乗車、三崎港下車、北へ徒歩2分。


◎京急久里浜線三浦海岸駅から京浜急行バス乗車、三崎港下車、北へ徒歩2分。