山口総鎮守・今八幡宮
社格・旧郷社
御鎮座・山口県山口市八幡馬場22
電話083-922-0083
御祭神
応神天皇(第15代天皇)
仲哀天皇(第14代天皇・応神天皇の父)
神功皇后(仲哀天皇の皇后・応神天皇の母)
玉依姫命(初代神武天皇の母)
宇治皇子(応神天皇の皇子・仁徳天皇の弟)
御由緒
室町時代に記された『二十二社註式』によれば、初め宇治皇子一座を祀り今八幡宮と称し、守護大名大内氏の山口入府以前から存した。この社の創建年代は不明であるが、鎌倉時代の弘安年間、大内弘成の娘に「今八幡殿」という名が見えることから、これ以前の古社であることが判る。
文明3年(1471)大内政弘が山口の鎮守と定めて市内の朝倉八幡宮を遷して合祀し、社号はそのままに主祭神を応神天皇とし、他に三座が加列される。その後、文亀3年(1503)大内義興が社殿を造替、明との交易で得た莫大な財力を象徴する荘厳なもので、現在国の重要文化財に指定されている。
当宮は大内氏の居館(大内館)北東の鬼門除けにあたる守護であり産土神であることから、山口町の総氏神として「山口総鎮守」の尊称を賜り、歴代当主の崇敬は極めて篤く、そのことは『大内氏壁書』の文明10年(1478)条に大内政弘より布達された「今八幡宮条々」において当時の広大な神域を維持・保護するため種々の触書が出されたほか、常に当主の参拝や寄進が行われた。大内義隆はその財力を誇示する巨大な鰐口を寄進しているほか、神道に強い感心を寄せて都から吉田兼右を招聘し、宮司共々神道伝授を受けている。さらに貴族風な義隆は網代車で社参するなど、その権勢は山口を中心に最高潮に達した。
大内氏滅亡後も、引き続き毛利氏により当宮は篤く保護され、神領が寄進されたほか、修繕の際の費用は藩より支弁されている。また一門の病気平癒祈願が行わるなど、当宮に対する尊崇が判る。幕末には、七卿を財政面で支援したほか、社務所において堀真五郎、久坂玄瑞らが密談を重ね、堀を総督とする諸隊のひとつ八幡隊が結成。屯所になり、四境戦争などに大いに活躍した。近代になっては明治6年に郷社に列し、大正3年に解体修理を施す。昭和29年、平成3年に屋根の葺き替えを行う。古くから山口地方において両社といえば当宮と仁壁神社を指し、例祭には毛利家から当主の代参がこの二社にかぎり差遣された。また正月の三社詣りはこれに八坂神社を加えたものとして、江戸期より今なお地元市民の習俗に生きている
【文亀3年建立・国指定重要文化財・本殿・拝殿・楼門】
本殿は向拝を付した三間社流れ造りで、拝殿を介して楼門までを一直線上に連結させる構造。これは全国的にも山口地方だけに見られる独特な様式で、近郷にも見られるが当宮の建築年代が最も古く、豪壮な造りであるのは創建当時の大内氏の強大な権勢と財力を示している。この様式は、概して広くない限られた土地を有効に活用する必然から生じた合理的な工夫である。
また、本殿及び拝殿上部の蟇股は、天体や宝珠など類例の多くない図案で構成され、形も室町期特有のものから厚みのある桃山期へ移行する過程が表れており、美術史の見地からも貴重な史料である。
楼門は向拝付で、左右に翼廊を配し、床板を敷いた「楼拝殿造り」と呼ばれる特異な形式で、必要に応じて拝殿としての機能を備える。左右翼廊の床が中央より低く高低差が設けられているのは、当主に従い伺候する武士の身分に応じた座位の確保や、読経する僧座のためのものである。
上層部は三つに分け、中央を扉、左右を連子窓とし、大きな大内菱が彫り込まれている。また、輪宝や木製の柱の礎盤は禅宗様をあらわしている。
参道、石段途中両脇に客人神社が祀られています。
その他、境内には点在して摂末社が鎮まっています。
【恵比寿神社】
摂社・八柱神社
今八幡宮氏子のうち、八ヶ町内にそれぞれ鎮座していた摂末社八社を、明治40年の内務省令により氏神神社に合祀することとなり、うち一社の社殿を現在の地に移設して八柱神社と称す。
小雨の中、七五三詣で宮司さん・神職さんが交代で、入れ替わり、立ち替わり、祝詞を上げていました。(^^♪
御朱印
宮司・神職の方、二人共社殿にいる為、宮司さんの奥様に書いて頂きました。
簡単では御座いますが、今八幡宮でしたm(_)m
山口県も残すはメインの神社になって来ました。・・・が、そこは週末に書きたいと思いますm(_)mm(_)mで宜しくお願い致します。













