川崎山王・稲毛神社

社格・旧郷社

御鎮座・川崎市川崎区宮本町7-7

電話044-222-4554

御祭神

武甕槌神 (たけみかつちのかみ)

配祀

経津主神 (ふつぬしのかみ)

菊理媛神 (くくりひめのかみ)

伊弉諾神(いざなぎのかみ)

伊弉冉神(いざなみのかみ)

御由緒

当神社のご創建の年代は詳らかではありませんが、御神木大銀杏の樹齢が1千年と推定されるところから、当地の古社であることがわかります。


稲毛




社伝によれば、当神社は東国に争乱の絶えなかった頃、武神・武甕槌神をまつり、天皇軍の戦勝を祈る社として建てられたと伝えられています。第十二代景行天皇が東国御巡遊のおり当神社に賊難を避けられたといい、第二十九代欽明天皇の御代、この地方に動乱が絶えなかったため、天皇は当神社に幣帛・七串を奉り、新たに経津主神、菊理媛神、伊弉諾神、伊弉冉神を配祀せしめられ、戦勝とその後の親和協力を祈られ、以後長く勅願所であったと伝えられます。



稲毛





鎌倉時代には将軍家より社領七百石を賜り、佐々木四郎高綱公が源頼朝公の命を受けて御社殿の造営に当たりました。足利時代には、当時の神主が新田家と関係が深かったため社領を二十石に削られてしまいました。しかしこの時代の信仰の深さを物語る史料として、応永十一年(一四〇四)の大般若経六百巻施入の記録があります。また新潟県の国上寺に現存する長禄二年(一四五八)銘の鰐口は河崎山王社すなわち当社に奉献されたものです。


稲毛

秀吉公および江戸幕府からは二十石を賜りました。とくに家康公江戸入府に際し天海僧正ご巡見の参拝あり、随神門、神馬等の寄進を受けたと伝えられます。江戸時代中期以降は平和な時代風潮の中で殷賑を極め、社家九家社人十三人を擁し、川崎宿および河崎七ヶ村の鎮守として広く近隣一円の崇敬を集め、例大祭「河崎山王まつり」は六月十五日に行われ、その盛況なさまから「東の祇園」と称されて街道名物の一つとなっていました。






堀田稲荷と第六天神社

稲毛


両社は江戸時代には堀之内にあり、川崎宿の旅籠屋、商人、芸妓たちや近郷の人々が篤く信仰していました。神仏習合の当時、第六天神社には「他生自在天(たけじざいてん)」が祀られており、人々はそれを多芸自在と読んで技芸上達と安産の神として崇敬してました。


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御神木・大銀杏と十二支巡り

稲毛神社の御神木大銀杏は、樹齢一千年以上といわれ、稲毛神社の長い歴史と尊い由緒を物語っています。



稲毛






































江戸時代には東海道を旅するものに「山王様の大銀杏」として知られ、安藤広重の『武相名所旅絵日記』などに当時の神々しい姿が描かれています。また別の書物(『禺老忠政遊覧記』)には「この大銀杏の周囲を回りながら願い事をすると、ことごとく叶う。特に縁結び、子授け、子育て、学問稽古事の向上に霊験があり、参拝者がたえない」と書かれています。さらに、 “いろ紙に願い事を書いて枝に結び、一葉をとってお守りにするとよい”と伝えられています。



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大鳥居

社殿前の石の鳥居の台座には、江戸時代の川崎宿の有力な旅籠や商人の名が刻まれており、歴史的価値の極めて高いものです。


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拝殿



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拝殿前・青銅像『天地睨みの狛犬』籔内左斗司作


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この狛犬は平成の御大典記念として制作されました。右が天を祓い、左が地を祓うという意味が込められています。上半身についてお願いごとのある方は右の狛犬を、下半身についてお願いごとのある方は左の狛犬を撫でてからご参拝下さい。



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拝殿・拝所


稲毛

旧御社殿は江戸中期の宝永年間に川崎宿本陣当主・田中丘隅の世話によって造営された荘厳優雅な建物でしたが昭和二十年の空襲により灰塵に帰してしまいました。しかしその後、氏子崇敬者の赤誠によって、昭和三十八年、鉄筋コンクリート神明造り、延べ面積数百一坪の華麗なる現社殿の新築を見ました。


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左・佐々木神社と天満社


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他、境内には浅間・白山・弁財天などの摂末社が数多く鎮まっています。




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稲毛神社・意外と見所が多くて少し驚きました、境内は明るく陽の気が漂いゆっくりと参拝出来るお勧めの神社だと思います(個人的感想です)他にも正岡子規没後100年記念句碑や御神水吹上井戸石枠などがあります。



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御朱印・お気に入りしました☆☆☆☆☆です。

稲毛





見所の多さ☆☆☆



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