桶狭間の戦い(1) 国土地理院地図からみた地形について | よろよろ もうもう 

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桶狭間の戦い(1560年)の織田信長と今川義元の進路について思いを巡らせています。

今回試しに WEBの国土地理院のデータを使って現地の高低図を描いてみました。

その結果、古地図の地形と近似の高低を見ることができましたのでご紹介します。

 

(1)図1について

大高城、丸根砦、鷲津砦 中嶋砦が どういう地形上にあったかが見えます

今川義元本陣があった可能性もある(主流説ではないようです)漆山も形もよく分かります。

織田方の中嶋砦への移動が今川方から丸見えとなるため織田家臣が中嶋砦への移動に大反対したのも 漆山あたりにもし今川軍がいたならば納得できます。 本陣ではなくともこのあたりに今川軍がいたのでしょうか。

地図からは左京山も要衝に見え、左京山が各資料に出てこないのは不思議な感じを受けます。

今川軍が布陣したといわれる高根山、幕山、巻山、生山からは 織田軍の中嶋砦は見えにくいように思われます。

このあたり現地に行って確認してみようと思います。 

<図1>

(2)図2について

豊明の桶狭間古戦場伝説地、緑区の桶狭間古戦場公園あたりはこの2図のようになりました。おけはざま山(と思われるところ)が中央やや下に赤く見えます。

このあたりに今川義元本陣があったというのが現在主流の説です。

 

地形からのみみて 織田軍の進路を勝手に想像してみました。

・織田軍の動きを高根山や生山の今川軍に悟られないようにするには、太子ヶ根のあたりの北側を迂回する。

・太子ヶ根あたり悟られにくい場所で待機 (この時に豪雨) 

・豪雨が上がり次第 田楽坪(桶狭間古戦場公園)の大池方向=地図の黄色で見える通路=へ一気に南下。

・おけはざま山中腹の今川本陣を西から襲う

・今川義元は東のほうに追いこまれ 豊明の古戦場伝説地あたり(館狭間、田楽窪)で討たれる。 

<図2>