いじめられっ子はいじめられた自分を信じていいと思う話。
ある日、部室に入れてもらえなかった。ある日はテニスラケットがなくなった。いじめは無くさなくてはいけません。人をいじめるのはいけないことです。先生は、周りの友達が助けてあげましょう。正直無理とおもう。そんな甘いもんじゃないでしょ。だって、みんな一緒にスタート切って競争してるんだもん。競争の理由って、勝つことの楽しさでしょ。いじめってなんなのか。何が原因なのか。どうしていけないのか。全部もう一回、考えてみようと思った。いじめられる側も、いじめる側も、助けてあげない友達側も、みんな違う。常識のない人になりたくないっていう思いの人たちが集まったとき、それが普通っていう武装をして、それから外れた人を傷つけたくなる時がある。でも不安だから、ものさしを当てる。自分のものさし、大丈夫ですか?って。私のものさしは、普通とズレてませんか?って。この人傷つけられるくらい、私は普通になれてますか?って。いじめられる人は、直感的に自分を知る人だ。これは自分とは違う、と思うものに、我慢して擬態できないだけだ。それがたまに表情や行動から見えてしまって、ものさしを当てられまくってしまう。『ああ、君とは違うから、私は大丈夫だ』っていう、不安の解消に使われてしまう。だけど、いいのだ。普通の中って実は何にもないと思う。偉い人の顔がプリントされた紙でものを買っているように、誰かが決めたことを、疑いもせずに従っているだけだと思う。自分がみんなと比べてどの位置にいるか気になる。一位からどれだけ離れているのか、足切りを食らわないか、怖くてしょうがない。でも、一斉スタートしたように見えて、実は、それぞれがそれぞれの道を選んで歩いてる。同じ道を歩いているようで、ただ、今この瞬間、道が隣り合ってるだけ。誰かに追いつきたいと思っても、その人の道には行けないし、追い越したとしても、その先にあるのはまた自分の道で。それぞれの道が違うから、自分の道がどんな風かよく見える。だからみんなちょっとずつズレてる。だけどそのズレは、あなたにしかないものなんだよ。いじめられたのは、チャンスだ。自分がどんなことされたら嫌なのか、いじめられたと感じるのか、知るチャンスだ。あとその前に、一発ぐらいは殴っていいと思う。『目を覚ませ!』って。