世界が近日中に終わる。この教えに入らねば救われない。という話を信じました。
それから数年間、休日や放課後に、お姉さんやお兄さんの話を聞き、ベジタリアンになり、支部の集会にも出席し、何万という仏壇を持てと言われれば購入し、一本500円の護摩木をノルマ達成の為に友人に売ったり、アルバイトをして買ったり、全国護摩木供養の式で巫女をやったり、入会式の儀式を手伝ったりと、中学生までは必死でやってました。
『こんな話を聞いた』と最初に母に話した時に、『ああ、そう』と聞き流しただけで、それについて話し合いをする事もなく、気がついたら、何年もかけて娘が洗脳され、周りを勧誘し、ベジタリアンになって、娘の部屋はお線香臭くなっていた。という感じです。
最後には、支部まで両親が話を聞きに行ったり、強制的に私を止めさせてくれた御陰で、洗脳も薄れて行きました。
その後、オウムの事件もあり、宗教は拒絶反応の対象であり、大学4年生で駆け落ち結婚するまでは、無神論者でした。
駆け落ちした時は、家族と友人が反対したため、孤独と恐怖から、夫の信仰するキリスト教を信仰しました。聖書を何度も読み、祈りを捧げ、教会に行き、夫や牧師さんに質問をしてもっと教えを理解しようとしました。
その後、またも疑念が膨らんで行き、また宗教というものに幻滅していきました。

信じていたものや人が、違う、と分かった時のショックはすごいものです。
何度もそういった経験をして、私は自分が信じられなくなり、心に従うと不幸せになると思ってしまうようになりました。
思えば、正解を求める完璧主義、辛い時によりどころを求める依存症な部分がこういう結果をもたらしたんだと思います。
ところが、コーチングを受けたとき、
『小学生から、世界を救おうと思ったなんて素晴らしい』
『駆け落ちをするくらい人を愛する事ができてよかったね』
『人智を超えた存在を信じる事ができるのはいいことだよ』
と、私の罪悪感や敗北感や犠牲者的な考えを吹き飛ばしてくれ、自分を信じていいんだ、と目を覚めさせてくれました。
そして別居を考え始めたころから、人為的に作られた宗教ではなく、自分が体感し直感で感謝できる、自然の恵みと人生への愛と信頼というナチュラルなスピリチュアリテイに目覚めていき、現在にいたります。
自分の心の声、自然の恵み、人や人生への愛こそが、私が幸せに生きる事ができる基盤であり、幸せに生きる為に、規律やマニュアルは必要ないんですね。
