千葉で停電が起こって一週間。
ニュースを見ていると、現地にリポーターが行って、ああ、大変そうですね、不便ですね、といい、スタジオに戻れば早く復旧してほしいですね、なんて言っている。本当に大変だと思うし、早い復旧を願う。
しかし、こういうので、大変だ、現地の人はかわいそうだ、という話になるたび思うことがある。
今もやっているのか知らないが、ウルルン滞在記と言う番組があった。世界の色んな所にリポーターが行って、一定期間滞在し、現地の人の生活を体験し、また現地の人と交流を深めていくという割とハートフルな番組である。
この番組では、あまり文明化が進んでない地域にいくこともある。
モンゴルの遊牧民だとか、アラスカのイヌイットだとか。
そういうところでは、当然のように電気が来ていない。電気どころか、ガスも水道もない。スマホなんてもちろんない。
しかし、そういうところに行って、リポーターが、電気がないね、大変だね、と言うことはあっても、決して「かわいそうだね」とは言わない。むしろ、「電気もないようなところだけど、それでも素敵な生活だ」という捉え方をする。
しかし、もし本当にそうであるのなら、リポーターは同じように千葉に行って、「電気はないかもしれないけど、素敵な生活だね」と言えるはずである。だが、決してそうはならない。
これはなぜか。おかしいではないか。
一つ断っておくと、千葉にリポーターが行って大変だ、と報道することや、また逆にウルルンがアラスカに行って電気がないけど素敵な生活だ、ということを、間違ってると言いたいのではない。
いいたいのは同じように「不便」があるのに、どうしてこうも捉え方が180度変わるのか、ということである。
これに対する答えは、結局、幸福とは「比較」でしかない、ということである。
千葉の人たちが同情的に報じられるのは、千葉の人たちはちょっと前までは電気が使えた、それなのに今は使えない。
つまり以前と「比較」して、状態が悪くなってる。だから不便に感じるのだ。
もしくは、日本の他の地域では電気が使える、それなのに自分たちだけは使えない。だから「比較」して不便に感じるのである。
つまり、時間的、空間的に比較して、自分たちの現状が比較対象より劣ってる状態にあるから不便なのである。
人の幸不幸もこれと同じである。
交通事故で足を怪我して一生歩くことができなくなった人がいるとする。この人はそれをとても不幸に感じている。しかし、それは、歩くことができた状態と比べて、「歩けない」という悪い状態に今なったから不幸なのである。
もしくは、世の中の人がみんな歩けるのに、自分だけ「歩けない」から不幸なのである。つまり他社と比べて自分が悪い状態だから不幸なのである。
もし、人類がすべて歩けなかったら、その人は自分を不幸とは決して思わないだろう。
貧困に関してもそうである。
貧しい人は自分が不幸だと感じる人は多いだろう。
日本でも給料が安い、生活が苦しいと嘆く人がいる。しかし、世界に目を向ければ、そんな貧しさとはものが違う貧しい人たちが大勢いる。しかし、日本で暮らしていると、そういうより貧しい人の存在を意識することはない。代わりに、日本にいる他の裕福な人たちにばかり目が行くだろう。
原始時代の人類を考えてみよう。日々の食事にすらありつけず、野垂れ死ぬことなんて当たり前にあったであろう。そう考えれば自分は十分に幸せであるかもしれないのに、現代の事情と比較して不幸だと考えている。
つまりここでも、結局比較(それも偏った比較)をすることで不幸になっているのである。
貧富の格差が問題なのは、単純に富が偏って貧しい人が生まれるからだけでなく、貧しい人に、より自分が貧しいと感じてしまうような比較対象が生じることも問題であると言える。
人の幸不幸はしょせん、比較である。
自分の状況を「いい状態」とばかり比べるのでなく、もっと視野を広げると幸福になれる・・・かもしれない。