(351)日本人奴隷
世界が大航海時代に入ると、当然ながら日本も影響を受けるようになります。
1543年に種子島に鉄砲が伝わり、以後、戦争の形が変わります。日本史で学ばれたことと思います。
ところで、この頃日本から沢山の奴隷が海外に運ばれていた事はご存知でしょうか。鉄砲が伝来し、何しろ日本ですからすぐに同じ鉄砲を作ります。ところが火薬は無理でした。硝石を使うことは突き止めたのですが、硝石は日本には産出しなかったため、大名達はとにかく硝石が欲しかった。
キリスト教宣教師たちは、これら大名達をキリスト教へ入信させるのが得策と考え、大名達に接触します。バテレンたちの思惑は見事に的中しまして、日本での布教の親分だったフランシスコ・カブラルが「封建領主にまさる宣教師はいない」と書き残しています。
その一方で大名達にも思惑があり、他国より優れた武器を入手し軍事力を高めることが急務でした。このために利用したのがポルトガル人との交易でした。大友宗麟、大村純忠、有馬晴信らの諸大名は、宣教師に布教許可を与える見返りに、交易船の自国領内への来航を約束させました。
ここに大名、宣教師、商人の三者の思惑が合致し、利権のトライアングルが完成します。つまり「布教」と「交易」とが取引されたのです。
ポルトガルに加え、スペイン人も加わります。日本側は長崎県平戸に商館を置き、本格的な交易に乗り出します。
さて、1582年に自分たちもキリスト教徒となった大友、大村、有馬のいわゆるキリシタン三大名の名代として四人の少年達がローマへ派遣されました。「天正遣欧少年使節」と呼ばれましたが、ポルトガルの全面的支援によって実現しました。長崎を出航しインドを経てポルトガルに向かい、スペインやイタリアを訪れるなどして八年後に帰国しました。
日本人奴隷の見た世界
日本人にキリスト教を熱心に広めようとするポルトガル人宣教師がいる一方、日本人を奴隷として大量に海外に売りさばく商人がおりました。もちろん宣教師のなかにもポルトガル商人と結託し、奴隷貿易のお先棒を担ぐものがおりました。
多くの同胞が奴隷として海外へ売られていた時代があったとは、にわかには信じがたいことと思いますが、紛れもない事実でした。たとえば豊臣秀吉の側近だった大村由己(ゆうこ)が『九州御動座記』に次のように記しています。
「(バテレンどもは)日本人を数百男女によらず黒船(ポルトガル船)へ買い取り、手足に鉄の鎖をつけて船底へ追い入れ、地獄の呵責にもすぐれ・・・・・・」
ヨーロッパ人がアフリカで買い集めた黒人奴隷たちを暗い船倉に押し込み、満足な食事も与えず新大陸へ運んだように、日本人奴隷もまたポルトガル人によって世界各地へ売られていった。その数はハッキリしないが、少なく見積もって二万人以上とする説もあれば、なんと五十万人以上と唱えるものまでいる。
1567年(永禄10年)10月、大友宗麟はマカオ駐在のポルトガル司教カルナールへ硝石を売ってほしいと書状を送っている。隣国の毛利元就と戦争中であり硝石を緊急輸入したかった。宗麟の書状を現代語訳すると、
「自分はキリスト教を保護するものであるが、敵方の毛利はキリスト教を弾圧するものである。ポルトガルはどちらを支援するかわかっているはずだ」などと書き送っている。
戦国大名がいかに硝石を欲しがっていたかが分かる。硝石はインドのゴアで産出され、日本に送られてきた。日本で硝石の需要が高まるにつれ、ポルトガル商人は日本人の足元を見て、原価の何倍かの金額を吹っかけて売りつけようとした。大名たちは硝石は欲しいがさりとて、無尽蔵に代金を支払えない。当時の代金決済の基本は銀だったが、とても足りず、そこに奴隷が取引商品として浮上してくる。つまり硝石の必要性が日本人奴隷を生んだ。何処へ売られていったのか資料がなくほとんど不明ではあるが、ヨーロッパへ向かった天正少年使節たちも、旅行中に哀れな同胞達の姿をたびたび目撃し、憤慨している。
豊臣秀吉の禁令
秀吉はポルトガル人の日本人奴隷売買に激怒し、1587(天正十五)年にイエズス会日本地区代表者のガスパールを呼びつけ次のように命じた。
「ポルトガル人は多数の日本人を奴隷として購入し、彼らの国へ連行しているが、許しがたい行為である。従って伴天連はインドその他の遠隔地に売られていった日本人を連れ戻せ」
これに対し
「日本人を買うことは、日本人がこれを売るからであって、宣教師達は大いに悲しんでおり、各地の領主に日本人を売ることをやめる事を命じ、これにそむくものに重刑を与えれば容易に停止できるだろう」というモノであった。
奴隷売買の責任は日本側にあるとする発言は、秀吉の怒りに油を注いだ。秀吉は直ちにバテレン追放例を発布した。通常の貿易だけは認めるが、キリスト禁止、宣教師の追放、奴隷売買禁止という厳しいものだったが、当然であろう。
それでも、日本人奴隷の売買がやむことはなく、1639年(寛永十六)徳川三代将軍家光によってポルトガル船、その他の外国船の来航禁止の措置が取られ、世界で最も厳しいキリスト教断罪が行われた。これによって、かろうじて日本は自国を守ったと言えよう。
『地球は球の如し』 熊田忠雄著 新潮社 平成25年
