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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。

 



(350)白洲次郎(しらす・じろう)

 

 戦後の連合軍統治下の日本で吉田茂を助け、活躍した一人の男がいるが、もう少し評価されてもいい。人物と新憲法とのいきさつを
簡単にご紹介する。

 

 明治35年(1902)兵庫県芦屋に生まれ、父親は綿貿易で成功した富豪。1919年(大正8年)神戸一中を卒業。日本でもクルマを乗り回していた鼻持ちならぬ中学生だった。すぐに英国に渡りケンブリッジ大学クレアーカレッジに入学、1928年(昭和3年)父親が倒産したため帰国。
 1929年(昭和4年)樺山正子と出会い結婚。白洲正子は戦後に文化人として活躍。
 1937年(昭和12年)に、後の「日本水産株式会社」の取締役に就任。一年の大半を外国で暮らす。吉田茂と親しく付き合い、英国大使館が白洲の定宿となった。

 

 1940(昭和15年)三国同盟が成立すると、すべての仕事を投げうち、もし日本が戦争に突入すると食糧不足となることを予見、都心の自宅を売り払い、「鶴川」に広大な土地を購入し農業に専念する。居宅を武相荘(ぶあいそう)と名づける。実際に友人達に食料を配っている。蛇足になるが、筆者がこの話を知って「なんとも先が見える人」と感心した記憶が強い。


 敗戦後、次郎は吉田茂の要請で終戦連絡中央事務局の参与に就任してGHQとの交渉や日本国憲法制定、通商産業省(現在の経済産業省)設立に尽力し、政界引退後は東北電力会長などを歴任。正子は青山二郎や小林秀雄との交流を通じて骨董・随筆家として活躍するが、夫妻とも亡くなるまで武相荘を住まいとした。

 白洲次郎 1985(昭和60年)11月28日逝去。



新憲法について
 白洲は近衛らの新憲法作成についても(結局は無駄だったが)、いつも「急げ、急げ」とせきたてた。マッカーサーは新憲法の天皇の扱いについて、米国上層部や、ソ連やオーストラリアなど天皇制存続に反対する国々の意志を考慮し、天皇制を維持しようとマッカーサーは一日も早く憲法改正に着手しなければならない状況にあった。このような事情を白洲次郎が高度な英語力から悟り、それゆえに日本側を急がせたと考えてもよいだろう。
 

 かくして二月三日に、マッカーサー・ノートとして知られる三か条を公表し、二月十三日にGHQ作成の憲法草案が日本政府に手渡された。このような経緯が戦後史の定説である。

 昭和21年2月13日午前10時、総司令部民生局長ほか二名の三幕僚が、麻布市兵衛町の外務大臣官邸を訪れた。これを迎えた日本側メンバーは外務大臣吉田茂、その他通訳など二名、また白洲次郎の4人だった。アメリカ側は太陽を背にして座り、日本側にまともに日光が当たるように座った。内容は厳しいものであり、日本側は愕然とした。特に吉田茂はショックを受けた憂慮の顔をしていた。
 ホイットニー将軍は、憲法草案を渡すよう命じた。(中略) 白洲氏は全員に代わって受領証に署名した。
 


 困惑する日本側に対し、ホイットニー将軍は①「マッカーサー将軍は天皇を戦犯として取り調べようとする圧力から、天皇を守っていること。②この憲法が受け入れられれば「天皇は安泰」になること、さらに③「連合軍が要求している基本的自由が、日本国民に与えられる」と考えていることを伝えた。

 さらにマッカーサーはこの憲法案を受け容れることを「要求」しているのではないが、もし、「あなた方」がこの案を国民に見せない場合は、自分で見せるだろう、といった。

 ホイットニー将軍と三幕僚は、午前11時10分に官邸から立ち去った。

 

 白洲次郎は、後年の回想(週刊新潮)に「-略― 渡された原文は、議会が一院制になっているほかは、ほとんど今日の憲法の各条文だった」とのべ、ホイットニーも同様のことを述べているが、ホイットニーの文には、日本側が驚いてチョコマカしていたことが加えられていた。どうも白洲次郎に対する悪意が混じっていると白洲次郎自身が語っている。
 

 占領期間中、GHQが「従順ならざる唯一の日本人」と本国に連絡した男、そしてホイットニーが「白洲さんの英語は大変立派な英語ですね」と言った際「あなたももう少し勉強すれば立派な英語になりますよ」と答えた男、「普段は穏やかで優雅な人」と評しているのは、明らかに皮肉である。白洲のその日の動転振りを強調することで、すこしは溜飲を下げたのであろう。もっとも後日、二人の間に書簡が交わされ、良好な微笑を誘うものという。日米の論理の相違について記したこの手紙を「ジープ・ウエイ・レター」と呼んでいる。

 

 GHQ側は、草案を日本側に手渡すと、その具体化をいそいだ。まだ、日本政府内の意見がまとまらないうちの某日、ぼくはホイットニーに呼び出された。至急、翻訳者を連れて来いというのである。そこで外務省翻訳官だった小畑氏らと同道して改めて訪ねると、かれはGHQ内に一室を用意しており、“マッカーサー草案”の全文を一晩で日本語に訳すように要求した。
 

 こうして日本語で書かれた最初の“新憲法草案”は、専門の法律学者の検討を経ることなく、一夜のうちに完成した。もっとも元の英文による原文とて、おそらくは専門の憲法学者の手には触れていないだろう。触れていたとしても、せいぜい戦時応召でマッカーサーの配下となった弁護士あがりの二、三の将校達くらいではないか。従って翻訳の際に、たとえ日本側の憲法学者が立ち会ったとしても、何ほどの効果を挙げえたかは疑問である。なにも準備ができないうち、3月5日の閣議で、総司令部案を受諾する方針で、天皇の「いまとなってはいたしかたあるまい」というご裁可を仰いだのである。

 だが、天皇の地位を規定して、草案が「シンボル・オブ・ステーツ」となっている点は、外務省きってのわが翻訳官たちをも大いに惑わせた。
「白洲さん、シンボルと言うのは何やねん?」
 小畑氏はぼくに向かって、大阪弁で問いかけた。ぼくは「英和辞典をひいてみたらどや?」と応じた。やがて辞書を見ていた小畑氏は、アタマを振り振りこう答えた。
「やっぱり白洲さん、シンボルは象徴や」
 新憲法の「象徴」と言う言葉は、こうして一冊の辞書によって決まったのである。

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