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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




270)天地明察(てんちめいさつ)

 江戸時代もまだ初期といったころ、すなわち徳川家綱のとき、日本の暦は宣明暦(せんみょうれき)を使っていた。中国から伝わったもので八百年を超して使われ続けた。当然ながら、さまざまな誤差が生じはじめ、改暦の気運が盛んとなる。日食・月食の時期がずれたり、夏至冬至がおかしくなる。放置すれば農業にまで悪影響を与えかねない。

 これを正確な大和暦(貞享暦)にしたのが渋川晴海(しぶかわ・はるみ)。三代将軍家光の義弟で会津初代藩主の保科正行や徳川光圀の秘密指令を受けてこの仕事に着手、様々な困難に打ち勝ち、二十数年の歳月を費やし完成させ、日本で初めての大和暦(貞享暦:じょうきょうれき)を完成させた。いうまでもなく、暦の変更は頒暦(はんれき:カレンダーのこと)の売り上げだけで六百万両、宗教、政治、あらゆる社会現象に関わる大きな変革となる。江戸幕府も落ち着いて、天皇家のお仕事だった暦を幕府で作りたい、という武家文化主導主義もあった。

 

 

 渋川晴海は優れた数学者であったが、囲碁で藩主に仕える家柄であり、囲碁の方も優秀との評判があった。現実に完成した大和暦を世に認めさせるための、数々の現実的な作戦を立てたが、ことごとく囲碁の定石、囲碁の作戦を使っている。

 

 この話は日本の天才数学者、関孝和との関係などが、とても面白くかつ簡明に冲方 丁(うぶかた・とう)氏によって小説にされ、本屋大賞を受賞した。また映画化もされた。『天地明察(てんちめいさつ)』である。ちなみに明察とは「ご明算」といったほどの意味。小説の内容をそのまま書くわけにもいかないから、当時の日本の数学者たちや、学問所の様子などをご紹介し、世界のレベルに達していた(超えていたと思いますが・・・・・・)日本の数学・物理学の世界を感じていただけたらと願って場面場面をご紹介したいと思います。


算額奉納

 当時は困難な算術が解けると、嬉しくて解答を神社に奉納する習慣があった。江戸に出てきた渋川晴海も“算額奉納”で有名だった渋谷宮益坂の金王神社へ出かけている。

 所せましと絵馬が吊り下げられている。完全に目を奪われた。円図、三角図、ひし形、あまたの多角形、それら図形の中に、いくつも描かれた内接円に接線。辺の長さ、円の面積、枡の体積。方陣に円陣。複雑な加減乗除、開平方。

 難問、難題、術式に解答といったものが、奉納した者の名や、祈願の内容とともに、どの絵馬にもびっしりと書き込まれている。

 個人でなく、塾の名で奉納されているものもある。

 問題だけで、術も答えも記されていないものもある。

 術にいたる数理を、事細かに記したものもある。

晴海が住む屋敷の者から、それらの存在を聞き、一目見たくてここまで来たが、

「これほどの数とは・・・・・・」

 圧倒されながら、感動のつぶやきが、ため息をつくようにこぼれ出た。

「すごいな、江戸は」

 呟きとともに感動と喜びが、笑い声になって口から溢れた。

 研鑽を誓い、神の加護によって技芸が向上することを願うために。あるいは己が成長を果たせたことを神に感謝して。人々がそれぞれの目的で、算術を記し、神にささげた絵馬の群れ。世にいう“算額奉納(さんがくほうのう)”であった。

 

 

 始まりは定かではない。

 当時、算術は、技芸や商売のすべてである一方、純粋 な趣味や娯楽でもあった。

 機会があれば老若男女、身分を問わず学んだのである。そろばんと算術が全国に普及し、算術家と呼ばれる者たちが現れて各地で塾を開き、その門下の者たちがさらに算術を世に広めた。算術書も多く出版され、中には長年にわたって民衆に親しまれ、版を重ねるものもある。研鑽の成果を出版するには資金が足らぬものでも、絵馬ならばきわめて安価に“発表”を行うことができたのである。

(中略)

 「なるほど遺題か」

 ようやく合点がいった。とともに晴海の顔に満面の笑みが広がっている。

 遺題とは、算術書を出版する際に、あえて答えを書かず、問題のみが、補稿として付け加えられたもののことを言った。その書を読んだ人間に、独自に解いてみよと、算術の力量を試させるためのものだ。難問が多く、何年にもわたって公に解答されないものもあったが、大抵は、別のものが回答を出版するとともに、さらに別の遺題を載せた。

そしてその遺題を解いた別の者が、解答と別な遺題を出版し・・・・・・と、次々に継承され、算術好きの読者を楽しませるとともに、術理の検討と発展に貢献すること大であった。

 それと同じように、絵馬によって出題された問題に、別の者が答えを書いているのだ。しかも面白いことに、その後さらに出題者が見て、合否を記している。しかも解答があっていることを『明察』とほめつつ、どこか解かれたことを悔しがるような雰囲気がある。

 中には書き加えられた解答が誤っており、『惜シクモ』とか、『誤謬(ごびゅう)にて候』など、相手の努力を認めつつも、どこか鼻を高くした様子で、正答を書き加えていたりする。

 宣明暦という(800年以上使われていた)“由緒正しい”ものに匹敵するほどの何かを用意せねば、いくら算術において授時暦が正しくとも、この国の知識層も民衆も受け入れてくれない。何しろ多くの算術家たちによって円周率の近似値が三・一四と証明された今もなお、巷間の技術職人を含め一般民衆は、三・一六という古くから伝わる円周率の方を有難がって使用するのが現実なのだ。ちなみに円周率はこの頃で小数点以下41位まで判明しており、西洋より早い。また後に建部賢弘が数式を発見している。これも西洋より17年ほど早かった。

明暦三年の大火(振袖火事)

 あれほどの存在感を発していた天守閣が、跡形もなく失われ、それまで天を貫いていたところにただ青空だけが広がっていた。明暦三年の大火、すなわち振袖火事による焼亡であった。江戸の六割が灰燼に帰した。大名屋敷も町も寺社も、凄まじい火星がなめつくし、以来、互いに豪勢さを競っていた大名屋敷のほとんどが、再建に際して、門構えをずいぶん簡略なものに変えていた。(中略)余りの死者の多さに、将軍家綱は火災の際に民衆が正しく非難できるよう、江戸の正確な地図の制作と普及を命じた。それほどの屍の山だった。

 「日本橋に立った時、富士と天守閣とを一望する“光景”こそ、人々が江戸に尊崇の念を抱く核心であり、ゆえに天守閣は何にも先んじて再建されるべきであった」という、悲嘆めいた意見が持ち上がっては、論争の種となるらしい。

 それでも天守閣が再建されることはなかった。というのも幕府の枢要を担う者たちの間で(保科正之が著名)

「時代は変わった。今のお城に、軍事のための天守閣は必要ない。ただ展望の間となるだけである。その分の財力を、江戸再建と、太平の世づくりのために費やすべきである」

 つまり幕府の江戸開府が覇権の証であった最後の名残だった。“戦時”の最後の象徴はそうして灰となった。つまり戦力にものを言わせる時代は終了し、新しい時代が来た。

 たとえば玉川の開削計画が始められたのは、承応元年、振袖火事のほぼ四年前である。多摩川沿いにある羽村から四谷まで、起伏の少ない関東平野で水路を開削するというとてつもない難事業だった。さらには四谷から江戸城内のみならず、山の手や京橋にまでいたる給水網を、縦横に設置するという大工事が行われた。それがわずか一年余で通水成功となった。水不足に悩んでいた江戸の者たちは・・・・・・(中略)

 そして寛文元年の今、その水路は赤坂や麻布、さらには三田にまで広がろうとしていた。今、この時にも、豪華の痕跡と、縦横にめぐる水路の狭間から、まさに、“江戸八百八町” の原型ともいうべきものが現れようとしていた。

 世界史と比べれば、この時フランスでは“太陽王”ルイ十四世が、ヴェルサイユ宮殿の建設を始動させ、清国では“史上第一の名君”たる康熙帝(こうきてい)が、紫禁城(しきんじょう)を豪華壮麗に増改築させている。

 それらの王朝の権威が絶頂期を迎えんとしているとき、徳川家開府より四代目に至り、巨大な城砦都市たる江戸もまた、炎と水とによって精錬され、百万都市として新たな時代の到来を告げていた。

算術道場の雰囲気

 大の算術好きで、わざわざ自分から屋敷の一部を使わせ、私塾の一つとさせたとのことである。門が開けっ放しなので入ってみた。かねてから、算術にでも剣術でも、塾や道場といったところは自由に出入りでき、しかも断れば寝泊りもできると聞いていたからだ。

 庭に入ると長屋を改築したような道場風の建物があり、その入り口に、磯村門下塾徒以下立ち入り云々との看板がある。おもった通り自由に入れるらしく、戸は開きっぱなしだが、

「ごめんください。あのう、ごめんください」

一応呼びかけてみた。誰も出てこない。一歩中に入ってみた。右手の壁にびっしり何かが張り付けられている。ひと目見て鼓動が高鳴った。壁一面、難問の応酬だった。

紙に問題を書いて壁に貼り、それをあの算額絵馬の問題と同じく、別の誰かが回答を書きつける。さらに別の誰かが紙切れに答えを記して上から張りつけたり、絵馬とは違って行儀は悪かったが、熱気はこちらが上だった。『明察』『誤謬:ごびゅう』『合問』『惜しくも誤』等の文字がばんばん書きつけられており、中でも、村瀬義益の名で出された一問に、七つも八つも答えが張り付けられ、いずれも『誤』の連続というものがあった。

 改暦を申しつけられた渋川晴海は、総統の計算をして大和暦(貞享暦)を算出する。正しさを証明するには天下万民の元に明らかにするのがいいと考え、日食、月食など、蝕を予言しその正確さを示せば正誤が明快となると考え、実行したがしかし、最後の蝕で間違いが起きた。当時は宣明暦、授時暦、大統暦、の三つに三年間、六回分の蝕について、この三つの暦を競わせた。実際には二つの暦が「蝕」をはずし、宣明暦だけが短時間の日食を予言していた通りになった。

 

がっかりした晴海は立ち上がる元気もなくしたが、前に算術の問題の方が間違っていて

解答ができないことがあった。そう、もととする支那(元)からの暦法、受時暦のほうが、間違えていたのである。

 簡単に言うと、場所が違うから緯度経度が影響してくる。年数がたっているから、計算の起点がずれていた。加えて天体の運行は真円ではなく、楕円を描いている。後世、ケプラーの法則と呼ばれるものに近い認識である。天の星々は規則正しく動くという常識からすれば、地球と太陽とが遠くなったり近くなったりしていること自体が想像を絶していた。しかも検証すればするほど、近似値点もずれてゆく。つまり定まった楕円ではなく、その楕円自体が、ゆっくりと移動していた。万民が長く抱き続けてきた大地と天の姿そのものに誤謬と正答を得た。この日本で渋川晴海だけがこれを知ったことになる。怖くてたまらなくなったが、ここまでくれば後は検証だ。

水戸光圀に頼み込んで、禁制だった西洋本を入手し、日本、支那、西洋の三つの視点を詳細に検証した。この本は西洋の天文学の詳細が漢文で記されていた。晴海の中では“何を検証すればいいか”が明快となっていた。『天経或問:てんけい・わくもん』。とは支那の遊子六(ゆうしろく)が記したもので西洋天文学の詳細が書かれていた。光圀はこれに加え南蛮人が製作した地図も添えた。『坤與万国全図:こんよ・ばんこくぜんず』という世界地図であった。マテオ・リッチというイエズス会の宣教師が、布教のため訪れた中国で天文学を教える傍ら、制作した地図であるという。さすがの晴海も初めて見たときは日本の小ささに愕然としている。

 改暦を拝命してから22年、四十五歳、やっと晴海は天の理を解明した。初めて日本人の日本人による暦が完成した。このとき算術は平面を超えて立体となったようだ。

 日本では長く天皇家が暦を管理していた。この理由について東京三鷹天文台に電話で聞いてみたところ「断定はできないが、当時の人々にとって季節の移り変わり、夏至/冬至、月食日食といった天空の事象を語る暦法は、非常に神秘的に感じたのではないでしょうか。それがために陰陽道をはじめ、占いと近いところにあった土御門家の専門となったのではないでしょうか」との推察を教えていただいた。もちろん学問的な話ではなく、一般論としてとは幾度も念を押された。理数系を全く理解しない筆者に困惑し、笑いながらの説明だった。

参考本:『天地明察』冲方 丁著 角川文庫 2012年


 2014年09月記述