(284)森鷗外の闘争心と北里柴三郎
森鷗外(1862~1922)ほど、嫉妬に敏感だった男もいないだろうと『嫉妬の世界史』の著者である山内昌之氏が記しています。
「明治の文壇で名声をかちえた鷗外は、軍医という変わった職業の世界で、いつも他人の視線を意識しており、加えて帝国陸軍という官僚たちの世界でも、必ず疎まれた。たとえ軍医総監になっても中将にあたる地位よりも上には行かない仕組みだったから、軍医総監が最高位、(鷗外は逆立ちしても大将にはなれなかった」とか。官僚であれば本省の事務次官とか軍務局長といった要職に就きたい所でしょうが、そうはいかなかったらしい。
鷗外は限られたポストをめぐって同期前後の人間がしのぎを削る過酷な競争社会にいたそうで、陸軍に任官してから、同期の友人たちであっても同じポストを狙う競争相手と意識せざるを得ない状態だった。
イロイロあって鷗外は相当に妬まれたらしいのですが、反対に鷗外の他人に対する嫉妬心も相当に旺盛だったとか。他人が自分の悪口を言っているのではないか?と気にするのは当たり前でしょうが、鷗外を知ると誰もが「これは俺のことをいってるのか?」と少々気になるといいます。
鷗外は、人の噂や陰口を酷く気にしました。評判に人一倍敏感であり、いつも自分が他人の悪口や、陰口や冷笑や攻撃にさらされている?と思いがちで、こういった人柄というか傾向は誰にでもあるのが自然ですが、優秀人材ほど強い傾向があるとか。
なるほど噂などに平静でいられるタイプの人は少ないもの。人間なら誰だって多少は気になりますが、鷗外はそれが特に激しかったらしい。この人の文学や医事の問題における戦闘的な姿勢や論争の激しさには、鷗外なりの理由があったというんですね(大谷晃一『鷗外、屈辱に死す』)
どうも明治期の頭脳優秀者にはこういった性格とても強かったらしいのであります。
さて、こうした明治期の日本に、大変に優れた医学者が輩出しました。その中で最も有名なのが北里柴三郎(1853~1931)ではないでしょうか。森鷗外も実に頭脳優秀であり、現・東大医学部に年齢を12歳だかで偽って入学、十九歳で卒業していますが、(制度が違うとしてもこの記録はいまだに破られていないとか)また、北里柴三郎は現・東大医学部を卒業し、ドイツに留学してコッホに師事、破傷風菌の純粋培養と、血清療法に成功し世界を驚愕させます。
また共同研究者のベーリングとともにこれらの知識をジフテリアに治療に使い成功し、再び世界を驚かせました。これら血清治療を、狂犬病、インフルエンザ、赤痢、発疹チフスなどに応用、そして1892年(明治23年)に帰朝し「日本細菌学の父」と呼ばれます。留意して頂きたいのは明治維新のわずか23年後という事実です。
北里の帰国にあたり、世界の医学界・研究界は北里柴三郎が欲しく、各国が破格の条件を提示していました(アメリカなどは現代の価格で年間研究費44億円を申し出た)が、「日本の医学を発展させたい」という北里の希望が強く、いったん帰国してから香港へ行き、このときにペスト菌を発見、またまた世界を驚かせます。(後に一部訂正)当然第一回ノーベル生理・医学賞の候補となりました。
ついで、同じようなコースをたどり志賀潔(1871~1957)が赤痢菌を発見します。当時の風潮として、不明な病気を探っていくと必ず細菌が発見されるといったことがありました。
このためか、チョッと先輩の緒方正規(おがた・まさのり)が日本独自の「脚気」の原因として「脚気菌」を発見したと公表します。
確かドイツにいた北里柴三郎は「そんな馬鹿な!」と激しく批判します。今でこそ「脚気(かっけ)」という病気はビタミンB1が原因と判明していますが、何せ当時のことであり、しかもほぼ全員が東大医学部・卒業生だったこともあり、「批判は許さず!」との風潮がありました。つまり現・東京大学医学部と、北里柴三郎とが激しい闘争を繰り広げることなりました。最も強く「脚気菌」説を支持していた一人が森鷗外であったといわれます。医学者としてはもちろんアウトです。(阿川弘之説)
あまりに酷い状態となり、慶応義塾を設立した「福沢諭吉」が間に立ちまして「日本伝染病研究所」を設立、コッホ、パスツール研究所とならび世界の三大細菌学研究所となりまして、北里が初代所長。また日本医師会が設立され、北里は「日本医師会の初代会長」となります。のちに北里は福沢に謝意を表すため慶応義塾に医学部を設立し、自分が初代医学部長となっています。さすがに今はそんなことはないでしょうが、東大医学部と慶応義塾大医学部はあまり仲が良くなかったとか。
さて、森鷗外を初め、当時の優秀な人材の頑固さを考えてみてください。もはや学問的な正確さよりも、面子というか何というか、問題の本質はともかく、そういった方向に走っていきました。このため日露戦争時には陸軍兵士の間に25万人の「脚気患者」が発生し、うち三万名が病で死亡しています。
北里柴三郎は第一回ノーベル生理学・医学賞候補となっていましたが、ノーベル賞委員会もあまりに激しい日本医学界の激闘に驚き、北里を避け、共同研究者のベーリングのみに与えたとの説が有力です。
その他にもビタミンを発見した鈴木梅太郎、志賀潔、秦佐八郎、その他多くの候補者がおりますが、賞が与えられなかったのは「人種差別の結果だ」とされがちですが、もちろん差別もあったとは思うのですが、どうもそれだけではなかったようで、森鷗外の人柄を知るたびに、何かしら「目的を忘れて面子を優先させてしまう風潮が、現在の日本にも残っているような気がしてならないのです。もちろん優秀な人材の頑固さの話であり、平成の政治家の面子については単なる「無知の涙」じゃなかった「無知の悲しみ」と感じておりますが。ということは選んだ国民も・・・・・・やめておきましょう。
引用図書:『嫉妬の世界史』山内昌之著 新潮新書
