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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。







(290)『悪魔の言語』日本語



 楡 周平(にれ・しゅうへい)氏は小説家で、今はサスペンスものが上手でして、『Cの福音』なんてタイトルのコカイン密輸をテーマにした小説など、テンポが速くてリアルで飽きさせません。
 

 この方が12年ほど前に『外資な人たち』という欧米人が上司になる悲喜劇を書いた一冊の中に、日本語を学ぼうとする外国人上司を書いております。楡氏はアメリカ滞在が長く、いろいろ経験を積んでおり、日本語を学ぼうとする外国人の特徴を書いておられ、これがなかなかに面白く、「僕は外国語を学ぶのが得意でね、三か月もあれば・・・・・・」などと意気込むジョーンズ氏の日本語学習の箇所だけご紹介させていただきます。

 

 外国企業各社は経済先進国日本で成功するためには文化、習慣の習得を必須の事項と考え、それにはまず語学の習得と、東京に赴任した外国人駐在員たちに個人教師をつけることになるのだそうですが、成果のほどはお寒い限りというのが実情らしい。
 「まず、最初はだね、日本語のレッスンが始まって三回目あたり。これが最初のハードルなのよ」と詳しい方が語り始めます。
 「大体が三回目あたりまではなぁ、レッスンの内容も日本語の仕組みの説明から始まって簡単なご挨拶とか、平仮名、カタカナの書取り練習ぐらいのもんらしいんだな。『タダイマー』とか言いながらオフィスに戻ってくるなり嬉々としてその日習ったご挨拶をご披露申し上げたりするわけよ。やおら書取り帳を取り出して、平仮名とカタカナの習得に余念がないのもこの辺りだわな。ところがレッスンも三回目辺りになるとな、数の数え方、それと簡単な漢字を教え始めるわけよ。問題はこの辺りからなんだなぁ」

 


 この辺り、中学に入学して早々に真新しい英語の教科書と、書取り帳を前に嬉々として、これから学ぶ初めての外国の言語に甘い夢を抱いていた自分の姿を思い起こさずにはいられないものがあるんですが、この日も問題のジョーンズ氏、オフィスに戻ってくるなり井上氏を前にしてやおらホワイト・ボードに漢字の『川』と『木』という文字を書くや、その文字の成り立ちを事細かに講釈し始めたんだそうです。
「ユー・ノウ。『川』って感じの起源はだな、つまり川がこう流れてるわな」
 ホワイト・ボードに縦に何本かのスジを書くや「三本形で表されるのはこの川の水の流れの省略形なんだ。同様に『木』もだな」
 こんどは葉の抜け落ちた木の絵を描くと、
「この木がこう変化してだな、今君たちが使っている『木』という漢字になったんだ。そしてこの『木』が何本か集まると『林』になり、さらにその集合体が『森』というもじになるんだな」
 

 そしてしげしげとホワイト・ボードに書いた、図形から文字への変化を見ると「メイク・センス」というや、ピラミッドの中に書かれたエジプトの古代象形文字を解読した学者のごとく何度もうなずいちゃったりするんですね。そして続けて言うには「かように漢字というものはだ、総て図形の変形、つまり象形文字の一種であるわけで、元の形からの変化を勉強すれば、さほど難しくはないんじゃないか」なんて、恐ろしいことを言い出したのには、それまでにこやかにジョーンズ氏のご講義を拝聴申し上げていた井上氏も驚いた。

「え・・・・・・ジョーンズさん。漢字が承継文字であることはおっしゃる通りなんですがね。現在われわれ日本人が使っている漢字はそれほど単純なものではないんです」
 井上氏、決してジョーンズ氏の日本語習得への熱意にみずをさすつもりでいったのではないのは言うまでもありません。
「その・・・・・・元の形に戻って漢字を解読するというのは少々無理があると思いますね。物そのものを表している漢字ならともかくとして、形のないもの、つまり状態や感情を表す
漢字ともなりますとちょっと・・・・・・」
 

 過度の期待の軌道修正も早いうち。そういう老婆心から申し上げたんだそうですが、するとジョーンズ氏、興味津々といった表情で「ほう、すると何かほかに漢字を習得するいい方法があるのかね。そうだ、一体君達はどういった方法でこの文字を習得するものか聞かせてくれんかね」
 そう聞くんです。

「まあ、文字の成り立ち。つまり起源ってやつですか、それは一応仕組みを理解する上で教わることは教わるんですが、せいぜい今あなたがボードにお書きになったその二つの文字について程度のことでしてね、漢字を習得する上ではそれほど深く教わることではないんですよ」
 するとジョーンズ氏、井上氏の前のチェアーに腰を降ろし、足を組み、
「すると何かね、君達は成り立ちも知らずにこの文字を覚えるってのかね」
「そうなんです」
「つまりそれは暗記するってことかね」
「そういうことになりますね。我々日本人は普通小学校に上がったあたりから、この漢字を習い始めるわけですが、学習方法と言えば読み書きともひらすら暗記することにあい努めるのが普通ではありますね。もし、その成り立ちから解明しようなんてことをしたとしたら、これは立派な学者になれますよ」
 


 この辺りになりますと、先程までのジョーンズ氏の意気込みにも少しばかり影が差してまいりまして、
「暗記といっても、このけったいな漢字キャラクターはどの位あるものなのかね」
 かなり真剣に聞くんです。
「そうですね。常用漢字。これは日常使用する範囲で用いられるものとしてお国が定めた漢字で、千九百四十五・・・・・・」
「千九百四十五だって!」
 これにはさすがのジョーンズ氏もびっくり仰天、二の句が継げないことになっちゃった。
「まあ、他にもこれ以外に使用する漢字もたくさんありますからね、実際に使用する数というのはこれ以上であることは間違いないんですが、これはあくまでも文字の数としての漢字という意味でしてね。読みということになりますと、これが最低倍になるんです」
「・・・・・・ダブル?」
「ハア・・・・・・と言いますのはこれらの文字が、普通二通りの異なった発音を持つからなんですね」(音と訓)

「な・ん・だ・っ・て・・・・・・文字の発音は一つじゃない?」
「そうなんです。そして漢字については一つ一つの文字が意味を持つのは、先程ジョーンズさんがいった通りなんですが、やっかいなのはこの漢字が組み合わせによってまた違った意味を持ってくることでしてね、つまりイディオムってことなんですが」
「それも暗記に頼るしかないのかね」
「そういうことになりますね」
 ジョーンズ氏、文字の多さと、発音の難解さに少々顔も青ざめ、
「まさか、そのイディオムの読みも暗記に頼るしかないってんじゃないだろうな」
「我々はそういう覚え方をしています」
 ジョーンズ氏、ついにここに至ってイエズス会の神父をして『悪魔の言語』と言わしめた、日本語の難解さの片鱗をかいまみることになったんです。

 


 確かに日本語の難解さ、特に文字の読み書きということに関して言えば、当のネイティブ・ジャパニーズでさえも覚つかないことが多々あるんですから、基礎知識すらもない外国人にとっては相当に難しいものであるのは想像に難くありません。何しろフルタイムでジャパニーズ・スタディなんかを専攻している彼の地の大学院あたりの学生ですら音を上げることもさして珍しい事ではありませんから、通常業務をこなしながら片手間に日本語を勉強しようなどという外国人駐在員にとっては、これは、絶望的といってもいいほど難しいものには違いないんです。

 この他、数の数え方などもう凄いことになってしまうんですが、筆者はワープロを打つときローマ字入力ですから、平仮名とカタカナにローマ字が入り込んできますね。
 

 知っている翻訳家は、外国語を日本語にする外国の方(ネイティブ)は少ないといっておりました。それと日本語の方が表現が豊かだと彼は言うんですが、そのあたりは筆者にはわかりかねます。



引用 『外資な人たち』楡 周平著 講談社文庫