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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。



(356)普天間警察署の弁当


『「食の記憶」でたどる昭和史』から 佐木隆三(作家)

 

昨今なにかにつけて、在沖縄アメリカ軍の普天間飛行場が話題になっている。宜野湾市の中心部にある空軍基地だから、アメリカ側も撤去を約束したが、その移転先がなかなか決まらない。きわめて政治的な問題であり、この先どうなるかわからない。しかし、「普天間」と聞くたびに思い出すのは、警察署の留置場で食べた弁当のことだ。

 

1972年1月18日、わたしは琉球警察本部によって逮捕され、普天間警察署の留置場で十二日間を過ごした。このときの被疑事実は、凶器準備結集、公務執行妨害、現住建造物放火だが、はじめに尋問を受けた部屋の入り口に「11.10警察官殺害事件特別捜査本部」という看板がかけられていた。71年1月10日、祖国復帰協議会が主催する「核兵器付き返還に反対する全島ゼネスト」が行われたとき、普天間署の管内でデモ隊と機動隊が衝突し、火炎瓶で火だるまになった巡査部長が死亡した。その事件の首謀者として、私が逮捕されたのである。

  沖縄の本土復帰は、72年5月15日だから、その直前のことだった。わたしは68年十一月、「琉球政府行政主席公選」を取材して以来、なにかにつけて沖縄を訪れ、71年4月からコザ市(現在は沖縄市)に居住していた。基地労働者の解雇反対闘争や、反戦派学生の基地突入闘争のことなどを取材し、頼まれたら講演などを引き受けたりしていたから、「過激派の黒幕」とみなされていたようだ。それにしても、職務執行中の警察官を殺害するような事件の首謀者は、死刑判決を免れないだろう。なぜ嫌疑をかけられたかは、後になってわかったのだが、わたしの講演をきいたことのある高校生数人が公務執行妨害の現行犯で逮捕され、火炎瓶を持って集合した現場で、覆面してアジ演説をぶった人物に似ていると供述したからという。

 


しかしわたしはゼネスト当日は、ずっと妻と行動を共にしていた。分身の術でも使わない限り、凶器を準備して集合した現場で、アジ演説などできる訳がない。ちなみに罪名が凶器準備結集なのは、集合させた責任者とみなされたからだ。いやはや大変な人違いをされたもので、逮捕されてからの丸二日間は、留置場で一睡もできなかった。

 とはいえ、もっと大変だったのは、妻の方である。沖縄で知り合ったとき、彼女は教員になるため教育実習を受けていた。それが本土から来た男と結婚する羽目になり、71年12月30日に那覇市内のホテルで、挙式したばかりだった。その新婚ほやほやの二十日目に、亭主が警察官殺害の首謀者として逮捕された。わたしが参ったのは、取調室で当日の行動を説明すると、警部補が「だったら奥さんを呼ばないといかんな」と口にするからだ。彼らの「呼ぶ」は、逮捕することに通じると思い、それが心配だから、夜も眠れなかった。

 

ところが妻は、逮捕された翌日から、一日に二回の弁当を差し入れ続けた。留置場では朝食が七時、昼食が十二時、夕食が五時だった。さすがに朝食は、警察が差し入れを認めない。しかし、昼食と夕食は受け付けるから、せっせと温かい弁当を、欠かさず運んでくれた。俗に「臭い飯」とは、留置場の食事のことをいう。実際には、そんなにひどいものではないけれども、妻がつくってくれた弁当は格別で、他の留置人からうらやましがられ、取調官は「新婚ほやほやだそうですが、奥さんの実家はさぞ大変でしょう」と嫌味をいった。

 たしかに両親は、映画にもなった壺井栄作『二十四の瞳』の主人公のように、娘が離島の教師になることを願っていた。それが無名の小説家と結婚したことで憤り、「勘当」を申し渡していた。その矢先に亭主が、とんでもない罪名で逮捕されたのだから、たまらない思いだっただろう。

 結果としてわたしは、11泊12日で釈放され、コザのアパートへ帰り、妻の手料理で美味しい酒を飲むことが出来た。そのあと警察本部へ出向いて、「誤認逮捕の謝罪を求める」と抗議をしたりしたが、時間が経つにつれて「面白い経験をした」と思うようになった。
 留置場を見学してもそれだけのことだろうが、「死刑になるかもしれない」という恐怖感は、やはり格別なものがある。この経験にもとづいて、1975年秋に初めての犯罪小説『復讐するは我にあり』を刊行し、第74回直木賞を受賞したから、妻は両親から勘当を解かれた。



さき・りゅうぞう● 1937年生まれ 『復讐するは我にあり』で第74回直木賞。裁判を傍聴しつづけ、独自の作風を確立。