(335)明治神宮の誕生
明治神宮といえば毎年初詣の参詣数が何時も日本一で、3百万人を超す。誤解されやすいが、明治神宮は、明治天皇を祀ったものであり、当然、明治の後の大正になってから造営された神宮だ。
神宮の森は、いかにも自然のままの森のようだが、表玄関である南参道口広場から、鳥居を抜け、石造りの神橋にいたる参道の両側は、かっては代々木の練兵場の一部で、全く樹木がない草地だった。
現在、幅14.4メートルの参道に両側から覆いかぶさるように繁るケヤキ、イチイガシ、シイ、クス、タカオカエデなど、常緑樹、落葉樹ともに、森をつくろうという綿密な計画の下に植樹されたものだ。
代々木の地名由来は、もともと井伊家に伝わった土地に、モミの木の巨木があり、何処からでも見え、ランドマークになっていたという。代々木の地名の起こりとなっていたモミの超大木が一本立っていただけで、この地の一帯は、『土地が荒れて果てて不毛の地であった』と『明治神宮御境内林苑計画』には記されているという。
明治神宮の『林苑計画』は、神宮造営後の大正10年(1921)、明治神宮造営局技師本郷高徳氏が、林苑計画および将来の施行に関して、私見を記述したもの。原文は、漢文の読み下し文で、相当難解だから、神社庁の中井沢氏が現代文に書き直したものをご紹介する。この資料は、現在でも林苑の管理などの参考にされているという。
さて、神宮の森の造営は、明治45年(1912)7月30日の明治天皇の崩御にさかのぼる。この年の7月、天皇ご病気の報が新聞紙上にて伝えられ、引き続き病が重くなっているとの報に、炎天下、「ご平癒を祈る人たちが宮城前(現在の皇居前)の玉砂利に伏していた」、と当時の新聞は伝えている。
しかし、全国民の祈りのかいなく、7月30日崩御となり、文字通り日本中が悲嘆にくれた。明治天皇の墓所については、「ぜひ東京に」との強い要望があったが、すでに宮内庁によって、京都・伏見の土地が決定しており、東京には実現しなかった。
「それならば、神霊をお祀(まつ)りして御聖徳をしのぶ神宮の造営を」という声があがり、大正2年7月の御一年祭終了後、政府は神宮創建の準備に着手、明治神宮がこの代々木の森に創建されることとなった。
なお、大正3年(1914)4月11日に、昭憲皇太后も逝去され、合わせてお祀りすることになった。
明治神宮造営決定
勅令208号により、大正2年12月20日、官制が公布され、時の内務大臣、大隈重信を会長に、神社奉祀調査会が組織され、法律、文学、建築、農林の専門家が招集された。これは実施機関である造営局官制が発せられるまでの暫定機関だった。
この調査会は委員制度で、奉祀に関する大半の要件(鎮座地、祭神、社名、社格、例祭日、神宝、宝物殿、境内、外苑など)を決定した。相当に面倒な作業だったろう。
任命された委員で、境内造営に直接関係のある人は、神社建築の第一人者といわれた、伊東忠太、関野貞の両工学博士、地方技術の大江新太郎、園芸の分野から宮内省の福羽逸人、原熙農学博士、樹林、樹木の分野から川瀬善太郎、本多静六の両林学博士、建築の分野から構造学の佐野利器工学博士、といった、まさに当代一流の人材を集めた陣容。
場所については、東京府に限らず、全国各地から請願や陳情が出され、四十箇所にのぼったという。主なものには代々木御料地のほかに、陸軍の青山練兵場、戸山学校敷地、白金火薬庫跡、青梅の御岳山、富士山麓、茨城の筑波山などがあったという。東京府内の土地と決定はしていたが、近県の土地は実際に調査されたという。
それらの中から、皇室との縁故も深く、すでに御料地(皇室の所有地)であった現在の場所が選ばれ、隣接する陸軍省の代々木練兵場の土地を一部譲り受け、合計72.2ヘクタールの土地が確保された。当時の住所は、東京府豊多摩郡代代幡村大字代々木だった。
造営局の発足
調査会の委員となった本田教授は、造営局発足の前から内命を受け、この御料地の図面を入手、境内計画の腹案を練っていた。また上原敬二氏が助手として手助けした。同じく大学で講師をしていた本郷氏にも助言を求めた。本田教授の設計を、本郷氏が現場に即するように意見を述べ、たびたびの修正が会って、中にはゼロからの再スタートなど大変なご苦労があったという。
大正四年(1915)四月、勅令第五七号をもって、明治神宮造営局官制が公布され、同時に神社奉祀調査会は廃止された。
日本各地にある鎮守の森を見ると、例外なく自然に育った大木をご神木として、それを中心としてひとつの森が形成されている。
神苑設計の基本方針は、「神苑にふさわしく世間の騒々しさが全く感じられない荘厳な風致を作る」ことにあった。やがて森の自然が、御社殿をより荘厳なものにしてゆく必要があった。
ところが代々木練兵場は、草原や畑だった所が多く、林苑としては理想的ではなかった。特に「杉」は都会、特に工場地付近では、煤煙が生育を邪魔する心配があった。
現在の新宿西口、かって淀橋と呼ばれた辺りに、すでに工場が建ち並び始めており、これを心配したものらしい。すでに空気の汚れという、環境問題があった。
さらに山手線の煙害も心配された。このころは代々木を通る列車はまだ蒸気機関車だったからだ。
そこで、松・ヒノキ・サワラなどの針葉樹を加えて第一の神林を造る事にした。ところが大隈重信内務大臣から、「伊勢神宮や日光の杉並木のような雄大で荘厳な景観が望ましい。藪のような雑木林では神社らしくない、というクレームが付いた。しかしこれは関係者の学問的な丁寧な説明でクリアーされた。現代になってみると、東京には大きな森や公園以外では、杉はほとんど見ることができない。東京の土地には杉は合わないようだ。
人の手を加えずに、永く森林を維持することができ、煙害に強く、さらに神社にふさわしい樹形となると、結局、常緑広葉樹に落ち着いた。こうした緻密な検討を加えた結果全体の植栽計画が決まり、実行に移された。
そして「樹木は一般国民の献進を仰ぐ」こととし、購入の予算は一切計上されなかった。にもかかわらず、献木の願い出が多く、九万五千本に達した。ふさわしくないものは遠慮したが、次につくられる神宮外苑の樹木に当てられたものも多い。なお、台湾、朝鮮、樺太などが日本の植民地、領土だった地代のことである。都心のオアシスだから時折ご参詣で、心のリフレッシュをお勧めしたい。
参考本:『明治神宮の森の秘密』 明治神宮社務所編 小学館文庫
