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江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。





(348)吉原は最大のテーマパーク

 

  東京ディズニーランドやデズニーシー、加えて大坂や長崎にも大きなテーマパークがあり、客を集めている。江戸時代に吉原は現代のテーマパークだったと言う説明があって、これがなかなか面白いから取り上げてみる。もちろん、テーマパークとは人々の願望を具体化して見せ、それがすべて虚構と皆で納得した上で参加する。
 
 子供たちをリアルに描いた小説・樋口一葉の『たけくらべ』。そこには吉原で働く「廓者(くるはもの):従業員」が大勢登場する。『たけくらべ』の時代は明治だが、まだ江戸時代とほとんど変わっていない。明治の吉原の町の様子は以前すでにここで取り上げた。
  
 友達に「あんたのお父さんは付き馬なんだよね」といわれて、顔を赤らめる場面があった。この子の父親は引手茶屋で給仕などをする男衆だろう。男衆の何人かは、客が払わない勘定を、家まで付いていって取り立てる「付き馬(つきうま)」と呼ばれる仕事をしていた。
 落語にも『付き馬』がある。勘定を取ろうと客についていった付き馬が見事に騙され、金を取るどころか、かえって巨大な棺桶の代金を請求される噺だ。また『突き落とし』では、付き馬は、どぶに突き落とされる。いい役回りとはいえない。

 

 付き馬のような、遊郭で働く男衆のことを「若い者」「若い衆」と言った。年齢に関係なく、歳を取っていても、「若い衆」だ。若い者は楼丁(廓で働く男:ろうてい)のほかにも、花魁道中(おいらん・どうちゅう)を看板提灯を持って先導する「見世番」や、客の寝間の行灯(あんどん)に油を差したり火をともす「不寝番(ねずのばん)」など、さまざまな職種があった。『たけくらべ』には、「下足番」の様子も描かれている。
 
(良人は小格子の何とやら、下足札そろへて、がらんがらんの音もいそがしや)

 下足番は、妓楼の見世開きの前に、紐に通してある下足札を揃える。作業中に札と札とがぶつかり合って「がらんがらん」と音が響いたのだろう。働いている下足番の姿が、目に浮かんでくる。ここでいう小格子は小さな妓楼のことで、大きな妓楼は大籬(おおまがき)と呼ばれていた。籬とは格子のことだ。


『たけくらべ』の主人公であるみどりの姉は、大籬・大黒屋の最高位の花魁であった。その娘を頼って和歌山から出てきた一家は、大黒屋の寮の管理を任される。寮とは妓楼の亭主とその家族が住んだり、病気や休暇中の遊女が過ごしたりする所である。
 一家は寮の管理だけではなく、父親は小格子の事務員、母親は「仕事屋さん」としても働いた。仕事屋さんとは、遊女の繕い物を請け負う女性のことである。大量の着物が消費される吉原では、多くの仕事屋さんが働いていたことだろう。

 

 主人公の名前「みどり」は、禿(かむろ)に良く使われた名前だ。禿とは前髪を眉の上で切りそろえた、いわゆるおかっぱ頭のことだ。七・八歳で働きに来た少女の呼び名として使われた。禿は高位の遊女について修行し、かかる費用は遊女が払った。十三から十四歳になると「新造(しんぞ)」になる。新造は遊女ではあるが、ここから高位の花魁になれたのは、ごく一部であった。


案内役を務める茶屋の客廻し
 入り口の大門をくぐると、そこは吉原を南北に貫くメインストリート、仲の町(ちょう)である。両側には引手茶屋とは、いわば吉原のプロデューサー集団のようなものだ。客に遊女や妓楼をコーディネイトしたり、遊郭の催し物などを企画した。ちなみに、茶屋に行かずに張見世(はりみせ)の遊女を見てそのまま妓楼にあがるのは、懐の寂しい客たちであった。

 

 茶屋に客が来ると、亭主とおかみが挨拶をし、担当の「客廻し」を決める。客廻しとは、客の希望する遊女の名前を聞き、妓楼へ案内する女中のこと。芸者を呼ぶ場合は、三味線箱と客の寝間着を左脇に抱え、看板提灯と酒の徳利を右手に持って案内した。ちなみに芸者は遊女とは違い性的サービスはしない。音曲と踊りだけで席を盛り上げる。芸者が遊女の領域をおかさぬ様に見張ったのが「見番」だ。
 料理を台屋(仕出し屋)に頼んだり、宴の采配を振るったり、床入りの世話をするのも客廻しの仕事だ。体力も気も使う、大変な仕事であった。客と遊女が床に入った所で、茶家に帰る。

 

 芸者は、吉原では遊女に次ぐスターである。女芸者と男芸者がいた。女芸者は唄、三味線、踊りなど芸の名人だ。繰り返しになるが、吉原芸者は決して売色することはなく、芸一本で身を立てていた。
 芸者の発生は、明和・安永年間(1764~81)と記録されている。しかし、それ以外にも「かぶき」や「踊子」と呼び名が異なるだけで、全国で活躍していた。もともと遊郭は、芸能の場であり、江戸初期の遊女は能や舞、唄、三味線の技能を持っていた。しかし芸能と売色を分割して管理する幕府の政策により、踊り子であり遊女でもあった遊郭の女は、何度も取りしまりを受けた。
 

 男芸者も女芸者と同じく、楽器や唄の専門家であったのだが、のちに役者の物真似や軽い芸も見せ、座を盛り上げるようになった。これが幇間(ほうかん)、いわゆる太鼓持ちである。


季節感を演出する植木屋
 吉原には、妓楼の営業時間外、つまり昼間に仕事をする人たちもいる。
 毎日、九つ(正午頃)になると、髪結(かみゆい)が禿や遊女の髪を結いに来た。同じ頃、各部屋では出入りの花屋が花を生ける。

 部屋の掃除は、中郎(ちゅうろう)とよばれる若い者の仕事で、大籬(おおまがき・おお
店)では七、八名が雇われ、掃除だけでなく雑用もこなした。遊女に人気の八卦見(易者)や手相見がやってきて、占いをするのもこの頃。
 
季節ごとに出入りする職人もいた。暮れには絵師が、襖絵や出版物のため遊女の姿を描きに来た。旧暦三月には植木屋が桜の木を運び込み、いっせいに仲の町に植える。この時期、吉原は花見の名所となる。花が散るとこれを抜き、五月にはまた別の花を植える。七月の盆の前には、提灯屋が、茶屋の玄関を飾り立てた。観光目的で入る旅人や女性も多かった。

 

 そのほかにも、さまざまな修理の職人や菓子屋、呉服屋、本屋、小間物屋などが吉原に出入りした。
 吉原と言う湿地に、人工的に造られたテーマパークのような町に、一万人近くが暮らしていたと言う。吉原は活気にあふれ、旅人も女性も子供も出入りする面白い空間になっていったのだ。



引用本:『江戸っ子はなぜ宵越しの銭を持たないのか』田中優子著 小学館101新書