江戸老人のブログ -104ページ目

江戸老人のブログ

この国がいかに素晴らしいか、江戸から語ります。




(254)江戸後期の大震災


15.近江の地震

 1819年8月2日午後2時頃(文政二年六月十二日未刻頃)、濃尾平野から琵琶湖周辺を含めた広い地域が大きく揺れた。被害が大きかったのは、木曽川・長良川・揖斐川(いびがわ)に沿う輪中地域(わじゅうちいき)だった。『文化秘筆』の記述によると、桑名に近い香取村(現・桑名市)の40軒ほどの家がすべて微塵となった。海寿寺ではちょうど法談を聞くため数万の人出があったが、寺の建物が崩れ、75人が即死。怪我人は数え切れぬほどであった。土蔵や建屋の破損はもちろん、大地には泥土が噴出した。
 伊勢湾沿岸の四日市では、中町、河原町、西町の土蔵の瓦が落ち、地中から泥水が三・四尺ほど噴き上がった。彦根では、105軒の家があり、そのうち70余軒が崩壊した。


16.越後の三条地震

 越後の出雲崎出身の良寛和尚は、そのとき七十一歳だったが、突然の地震に遭遇し、被害が酷かった三条まで足を運んだ。言語に絶する惨状を眼にし、「かにかくに とまらぬものは涙なり 人の見る目もじのぶばかりに」と詠んだ。このときに作った漢詩では、この四十年間、人倫の道を軽く見て、太平を頼んで人の心がゆるんだことが天災を招いた、としている。
 1828年12月18日午前七時頃(文政十一年十一月十二日)、雪の降り積もる中で、突然、雷のような地響きと共に大地が激しく揺れた。家並みが将棋のコマのようになぎ倒された。良寛も体験した三条地震である。
 ちょうど年の瀬を前にした「市」の日に当たり、三条では、早朝から煮物をして火を使っていた。煮売り店の五ヶ所をはじめ、十三ヶ所から燃え広がった炎は、町全体を一気に覆った。仏閣なども残らず消失し、迫り来る猛火は三里四方に広がった。
 民家や蔵など約五〇〇軒が全潰、一〇六二軒が消失、二〇五名が命を落とした。周辺の「燕市」でも全潰二六九軒、死者二二一人、「見付(みつけ)」では全潰五四五軒、死者一二七人、与板(よいた・現・長岡市)では全潰二六三軒、死者三四人、長岡で潰屋三千数百、死者四四二人、という大災禍となった。
 活断層から発生した内陸地震だったが、活動した断層は特定されていない。
 信濃川に沿う沖積低地では、広く液状化現象が起き、畑に生じた三四尺、一丈の割れ目から黒砂混じりの水が噴出、畑は水面となった。
 信濃川流域をはじめ、この地域では平安時代から液状化現象の記録や、遺跡が多いという。


17.北海道の地震

 1830年8月19日午後四時頃(文政十三年・天保元年七月二日申の刻)京都北西部で、中規模(M6.5)程度の地震が発生した。石垣、塀、築地などが多く倒れ、京都の死者は約280人だった。この年は不作が続き、「天保の大飢饉」で多くの人が餓死した。
 直後の1834年2月9日午前10時過ぎ(天保五年一月一日)、北海道の石狩平野が激しく揺れた。『天保雑記』によると、「西蝦夷地の内イシカリと申すところ、当正月朔日(1日のこと)巳の刻過ぎより地震強、二月二十二日(旧暦)」迄、日々地震にて、地割れ泥、噴き出、(中略)破損。との報告があり、蝦夷人の家を含む多くの建屋が損壊した。
 この九年後、1843年4月25日午前六時ごろ(天保十四年三月二十六日、明け六つ頃)北海道南東部の海岸へ大津波が押し寄せた。『松前家記』には「国後、根室、厚岸・釧路地方が大いに揺れ、海水が陸に溢れ、溺死するもの四六人。家を壊さる七十五戸。船を破る六十一艘。番所や蝦夷人の家は津波によって一軒残らず流れ去った、と、強い揺れと津波が記録されている。十勝沖のプレート境界から発生した巨大地震。
 その後に近代の調査により、十七世紀にも十勝沖から根室沖にいたるプレート境界で大きな地震が発生、最大波高10メートルを超える津波が押し寄せたことが明らかになっている。


18.善光寺地震

 1847年5月8日(弘化四年三月二十四日)、亥の刻(午前十時)少し過ぎに大きな地震があり、月番家老の河原綱徳(かはら・つなのり)は急いで登城しようとしたが、非常服を取り出すどころではなく、行燈の灯が揺り消えて、よろけ出る間に三度も転んだ。『むしくら日記』。町方では多くの潰屋があり、死者も多く、家に埋もれた人が多かった。西の空が赤いので土手から眺めると、西山手から東山手までの七ヶ所くらいが猛火につつまれていた。北方で善光寺 付近と、清野山(きよのやま)を越えて稲荷山付近は火事が強烈だった。
信濃の有名な善光寺 はちょうど数年に一度の、ご本尊ご開帳の年、数万人の善男善女が全国から集まっていた。善光寺の中にあった宿坊(宿泊施設)四六のうち、四四が焼失した。町方の宿泊施設は殆どが焼け落ちた。(『信州地震実記』)。焼死・圧死が千人ほどとされるが、実際には何千人か分からない。逃れた人も多いが、およそ七割が死亡したと思われる。すなわち死者は一万人を超すと考えられる。
長野盆地の被害は凄まじく、川中島周辺の民家はすべて揺り倒れた。また筑摩山地では地滑りが生じた。山崩れで流れが堰きとめられ、二週間後の五月二十二日午後二時過ぎ、20メートルの高さの水が一気に流れ落ち、四軒だけ残しすべての家々が された。予測可能な出来事だったから犠牲者は一〇〇人余りに留まった。
長野県埋蔵文化財センターの発掘調査では、弥生 時代後期から古墳時代、奈良時代に多くの断層激震の跡が見られるという。


19.伊賀上野地震

 幕末にペリーが来航し、ロシアのプチャーチンが開国を迫っていた頃、三重県 の上野盆地を強烈な地震が襲った。
1854年7月7日(嘉永七年・安政元年六月十三日)正午過ぎに大きく揺れ、二十数回小さく揺れた後、翌日は穏やかになり、安心して寝入った7月9日の午前二時頃(十五日丑刻)に「古今無双」の大地震に見舞われた。『見舞到来並雑記』によると、七日の地震では石灯籠を損ねる程度だったが、九日の地震では、家々で死人や怪我人が多く、まったくのパニック状態となった。この地震は「伊賀上野」を狙いうったようだった。死者九〇〇、潰れた戸数二二五〇戸、怪我人や半壊家屋は何千とも分からない。朝野(ちょうや)、長田、東村あたりでは、地面が七、八尺(2~2.5メートル)下がり、服部川と佐那具(さなぐ)川の合流部は湖のような淵となり、青田の底から白砂が吹き出し、地割れの中から乳のような白水が流れ出した。
 一方、伊勢湾沿岸では、多くの寺社が火災により焼失した。奈良盆地の沖積低地の被害も夥しいものがあった。二四〇〇ほどの家々が崩れ、死者はおよそ二〇〇人、全体では相当数になったと思われるがはっきりしない。安土桃山時代に地震となった断層跡があり、この断層が江戸時代に動いたものと見られる。


20.安政東海地震

 ロシア大使のプチャーチンが乗った「ディアナ号(英語ではダイアナ)」は幕府の指示で伊豆下田港にいた。福泉寺で川路聖謨(かわじ・としあきら)らと厳しい交渉が始まった。翌日、1854年12月23日午前9時過ぎ(嘉永七年十一月四日五ッ半過ぎ)大地が激しく揺れ、東海地域を中心とした太平洋沿岸が大津波に襲われた。高台の長楽寺に滞在していた村上淡路守の『下田記行』によると,市中の人家の中に四、五百石の船が二,三艘流れ込み、門前町まで水が来ていた。秋葉神社の山へ登ってみると、いったん水が引いた後に、まもなく二度目の津波が押し寄せた。勢いが凄まじく、たちまち防波堤を押し崩し、千軒余りある人家を片端から将棋倒しにした。
 黒煙を立てて船を押し込み、家が崩れ、人々は泣き叫び、地獄とはこんなものかと思った。引き波になり家々のすべてをすべて押し流し、また津波が七、八回押し寄せた。二度目の津波で下田の町は野原になった。
 一方、ディアナ号は地震で一分間ほどひどい揺れを感じ、午前10時にひどい大波が襲い、二度目の波が湾内にうねり込むと、浮いていたボート 類をすべて岸へ運び去った。波が引くときには、下田の町のすべての家屋が湾内に洗い落とされた(『イラストレイテッド・ロンドン・ニュース』)。
 ディアナ号は島のほうや岸のほうへ激しい勢いで引き寄せられ、三〇分間に四二回も回転した。船は左に傾き、海水が浸入、舵機が破損し下頭部と船尾の大半が破壊された。この間、艦の側を生存者たちが流れていった。乗組員は救命綱を降ろすなどの救助を行った。修羅場に足を踏み入れたプチャーチンは医師らを連れ、負傷者の治療に協力したいと申し出た。
 川路聖謨の『下田日記』には「ロシア 船も三人まで助けたり。魯人の話では,同船脇を百人も、通りたりと也。ロ人は死せんとする人を助け、厚く治療の上、あんままでする也。助けらるる人々、泣きて拝む也。恐るべし。心得べき事也」と、ロシア 人の献身的な救護活動に感銘を受けている。
 地震から二、三日後、ディアナ号は修理のため、伊豆半島南端を回って、北西岸の戸田(へだ)に向かった。このとき住民が総出で小船を出して手伝ったが、 が来ることを予感し浜へ逃げ去った。この嵐でディアナ号は沈没したが、乗組員は助かった。艦を失った五百人ほどの将兵に対し、川路聖謨らは迅速な救援活動を行った。二月七日に長楽寺で「日露和親条約書」が締結された。
 幕府が費用を負担して、戸田湾(へだわん)で小型の西洋艦が作られることになり、全国から船大工が戸田に集まり、西洋船の作り方を実地に学んでいる。日本初の西洋式帆船は戸田の知名にちなんで「ヘダ号」と名づけられた。後に娘のオルガ・プチャーチナが戸田を訪れ、住民たちに感謝の気持ちを伝えた。地震から十三日後に元号が変わったため、この地震は「安政東海地震」と呼ばれる。


21.安政南海地震

 驚くなかれ、「安政東海地震」の翌日(1854年12月24日午後四時頃)に「安政南海地震」が発生した。紀伊半島南端(串本)では、前日に起きた東海地震に驚いた人々が山へ逃げ込み夜を明かしていた。翌日、荷物を持って家に帰ると、夕方になってさらに激しい揺れに襲われ、家屋がきしみ、屋根瓦が落ち、軒は傾き人々の泣き叫ぶ声が響いた。
 やがて、潮が引いて海底が赤く見え、津波を恐れた人々はいっせいに山へ戻った。その直後、高さ3丈(約9メートル)近い津波が襲った。八〇軒の家が呑み込まれたが、死者はなく、浦神(うらかみ)では死者七名。
 一方、尾鷲(おわせ)では、すべての家が され三五〇人が犠牲となった。
 

 四国南東部では東海地震の揺れや津波は小さかったが、突然襲った南海地震によって大被害が発生した。個人日記によると東海地震については大したことがなかったが、翌日の安政南海地震については、「浜は一面荒磯のごとくなり、数隻の小船が畑に打ち上げられ、八十石積みの船が二艘、浜へ錨を引きながら打上げられた。大半の人々が海へ された」と書いている。高知県のある神社では42段の石段があり、「宝永地震」のときは舌から三十九段までが波に浸かったが、今回の地震では下から七段までだった。ちなみに、1946年(昭和21年)の「昭和南海地震」では石段まで到達していない。
 室戸岬は南ほど高くなるように隆起した。室津港は四尺(約1.2メートル)ほど上昇したから、大きな船の出入りが困難となった。吉野川下流の徳島県板野郡では、村々の土地が、一面に裂けて土砂を含んだ水を吹き出し、あたかも鯨が潮を吹くような光景があちこちに見られ、白い砂の海のようになったと『大地震実録記』に記録されている。淡路市教育委員会の調査により、著名な寺院の敷地が中世以降の地震により、何度も滑り動いたことが明らかになった。また幕末の滑り跡があり、「安政南海地震」の痕跡と考えられている。
 大阪市外では「ふと大地震ゆり、その長きこと甚しくして、家めりめりいう音おそろしき。人々外へ出、右往左往にてんでんす。先夏(伊賀上野地震)」よりはまたまたひどしという。」(『近来年代記』)
 大きな横揺れが二分以上続いた。家々は壊れ、土蔵が崩壊した。大阪湾 に進入した津波は、地震から約二時間後に大坂の沿岸に達し、天保山付近では二メートルに近い高さになった。多くの水路には、「地震のときは船が安全」と誤解した人々が避難していた。河口に達した津波は海岸に停泊していた千石船を押し流しながら河川や水路を遡り、橋を打ち壊しながら大船が無数の小舟の上に乗りかかり、折り重なりながら上流に向かって流された。(河田恵昭『都市大災害』近未来社)。大船も小舟もすべて津波に打上げられ、あるいは打ち払われ、微塵となり、また内川へ押し込まれ、大船の帆柱にて橋橋を打ち落とし、道頓堀 川の大黒橋まで、千四百艘の大船押し登り、船の上に船、二重三重にかさなり、亀の甲羅を干すがごとく」とあるそうだ。多くの人々があっという間に水底に沈んだ。
 

地震の翌年、木津川の渡し(現・大阪市浪速区の大正橋東詰)に、犠牲者の霊を弔う石碑が建立され、惨劇の様子が記録されているという。宝永四年にも同じようなことがあり、悲劇が繰り返されたことを嘆いているという。

 稲むらの火(参考)
「『大変だ。津波がやってくるに違いない』と五兵衛は思った。このままにしておいたら、四百の命が、村もろともひとのみでやられてしまう。もう一刻もぐずぐずしていられない」。
 これは、1937年から終戦までの間、『小学国語教本』(五年生用)として使われた「稲むらの火」の一節。
 物語の主人公は年老いた庄屋の五兵衛。大きな松明を持って飛び出し、高台にある自分の田んぼに積み重ねた稲束(いなわら)に火をつけた。日が没して天を焦がす稲束の火に驚いた村人たちが駆け上がってきたとき、百雷が一度に落ちたような大音響と共に村は抉(えぐ)り取られ何もなくなってしまった。人々はこの火によって命を救われたことに気づいたという内容だ。
 

この話は「安政南海地震」のときの実話で、五兵衛のモデルは濱口儀兵衛、豪商でありのち銚子で「ヤマサ醤油」を創業した。この話に光を当てたのは小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)であり、1896年の「明治三陸地震津波」と入れ替わっている短編を書いた。
 

22.安政江戸地震

 1855年十一月十一日の午後十時頃(安政二年十月二日夜四つ頃)下から突き上げられるような衝撃が江戸の町を襲った。歌舞伎役者の中村仲蔵(なかぞう)は、弟子の踊りの稽古から帰ろうと身ごしらえをしていると、地がドドドドと持ち上がった感じがしたから、すぐに地震と気づいたが、立って歩こうとすると揺れが凄く、足をとられて思うように歩けなかった。(『手前味噌』)。また当時十六歳の佐久間長敬(おさひろ:江戸町奉行与力)は、寝床に入ったばかりだったが、西の方角からゴウゴウという響きが耳に入り、頭を上げたが、夜具ごと三・四尺ほど投げられたように感じた。 

 障子、襖はガラガラと崩れ、壁は落ちた。枕元で裁縫していた姉二人は、泣き叫びながら長敬の上に重なり、その重みで起き上がれなかった。
 そのうち、近所の茅場町あたりの町屋から、「火事だ、助けてくれ」という女の叫び声を聞いた。忽ち火の粉が舞ったが、いつもの火事と異なり警鐘・版木・太鼓も鳴らなかったので、江戸全体が大変なことに成ったと思った。
 ドロドロと雷が鳴り響くような音がして地面が揺れ始めた。往来の人はうずくまり家では畳にひれ伏し、棟や梁で圧死するかと生きた心地がしなかった。穏やかになった頃、八方から出火し、我先にと逃げ出した。家に残る人はまれで、老若・男女・貴賎の差別もなく往来にひざを連ねたという。   

 (『安政大地震実験談』)本所・深川・浅草・下谷・神田小川町・小石川では震度六と推測される。
 死者は一万人ほど、多くは圧死で、裏通りの密集した棟割長屋(むねわりながや)の住人が多数犠牲となった。火事は翌日の昼頃までに、2.2平方キロが焼け落ちた。火災の被害が著しかったは新吉原。周囲を「おはぐろどぶ」に囲まれ、出入り口は大門だけ。火の海となった遊郭で、客と遊女の一〇〇〇人余が犠牲となった。

 

現代の学者らは、最初の揺れから数秒で大きな揺れになったことから、地下深部で発生したM7前後の大地震と考えている。
 最近、遠田普次氏(産総研)が、地下に潜り込んでいる太平洋プレートの先端が、首都圏の下で切り離され、フィリピン海プレートとユーラシアプレートの間に挟みこまれているとの説を示した。挟み込まれたプレートの境界から「安政江戸地震」が発生したとする解釈がある。また仮名垣魯文(明治になってジャーナリストとして有名となる)は「ナマズ」の異常行動を目撃して書いている。
 このとき「尊皇攘夷」を言い出した水戸学の大物、藤田東湖が江戸の水戸藩邸で圧死した。このため水戸藩は衰退の一途をたどっている。


23.飛越地震

 1858年4月9日の午前三時頃(安政五年二月二六日八ッ半頃)富山・岐阜両県が激しい揺れに襲われた。現・飛騨市の元田(げんだ)小学校の校庭に置かれた碑文には、飛騨・越中・越前に起きた大地震は、飛騨では小島・小鷹利(こたかり)・下高原・下白川の四郷七十箇村に被害を与え、全壊寺院九、全壊民家三百十二、半壊寺院七、半壊民家三七〇、即死二○三人、負傷四五人、死んだ牛馬八七。さらに、山の一角が欠け落ちて、九戸の五三人が家と共に地底深く埋もれ、荒町清蔵のむすめだけが奇跡的に死を免れたことなどが記されているとのこと。
 河合村から跡津川(あとつがわ)断層が西南西方向に延びているが、この断層の活動によって「飛越地震」が発生した。跡津川(あとつがわ)断層の東端では、立山連峰にそびえる大鳶(おおとんび)山と、小鳶(ことんび)山が激しい振動で崩れ落ち、立山温泉を埋めるとともに、常願寺川最上流の湯川(ゆかわ)や真川(まかわ)を塞き止めた。

 日本の河川工学に影響を与えたオランダ人技師デレーケが「滝のようだ」と驚いたほど急峻な常願寺川。下流の人々は大洪水の恐怖におびえる日々を過ごすことになった。
 二週間後の四月二三日の午後十時頃。長野県の大町付近でM7.5程度の中規模地震が発生し、これを引き金にして湯川の堰が崩れ、巨礫や大木を巻き呑んだ「泥洪水」が常願寺沿いの村々を襲った。
 正午ころになって、常願寺川の川筋一面に黒煙が立ち上り、大岩や大木などの森羅万象を一気に押し流し、水は一滴残らず流れ落ちた。大岩と小さな岩がぶつかり合って黒煙が立ち上った。川下のほうは常願寺川の川幅が広くなり、泥・砂・大岩・大木などが一丈もたまり、一面が平らになった。
 四月二六日には真川の堰が崩れて泥洪水が押し寄せた。今度は西岸地域を押し流して、加賀・富山両藩の三万三千石余りの田畑が壊滅した。


24.浜田地震

 厳密にいうと明治期に入るが、微妙な時期だから江戸時代大震災の最後に加える。
 飛越地震から一ヵ月後、彦根藩主の「安政の大獄」を経て1860年水戸・薩摩の脱藩士が桜田門外で井伊直弼を殺害した。藤田東湖の四男、小四郎が水戸天狗等を組織したが、敦賀で全員がとらえられ処刑された。
 江戸城は1868年に無血開城し、江戸は東京に、元号は明治と改められた。1872年3月14日(明治五年二月六日、)山陰地方に降り続いていた雨は午後四時ごろにあがり、生暖かい夕刻を迎えていた。

 浜田県・出雲県(両方とも現・島根県)では、ごく小さな地震が一週間前から続いていた。この日も午前十一時頃に小さな地震があり、午後三時過ぎに比較的大きな地震があった。
 その後、小さな地震が起き、海水が沖に向かって移動し始めた。そして、午後四時四○分頃、異様な地鳴りと共に大地が激しく揺れ動いた。
 浜田から大田(おおだ)にいたる海岸沿いの数十キロの範囲では、半分以上の家屋が全壊し、死者五百数十人、全壊家屋四千数百軒、焼失家屋二三○軒という大災禍となった。浜田地震(M7.1)と呼ばれる。

 地

震学者、今村明恒の調査によると、浜田付近と川波(かわなみ:現・江津市)~唐鐘(とうがね:現・浜田市)間で地面が最大1.5メートル隆起し、浜田から唐鐘までの間で約一メートル沈降していた。海岸に沿う海底の活断層が、南側が隆起するような活動を行ったためと考えられている。
 地元の国学者、藤井宗雄は「すさまじき音と共に天地も崩れるがごとく震い出るに、家々片端より倒れ、親を助け、妻を救う術(すべ)なく、兄弟は在所を異にし、児孫は行方を失い、ただ、めいめいの身命を助からむと、慌てて走るうちに、そこここより火い出て焼け上がり、鬢髪(びんぱつ)を焦がし、手足を爛し、息も絶えぬに火炎に悶え苦しみ、棟梁に腰を打ちくじきて、泣き叫ぶなど、眼も当てられぬ有様なり」と筆を走らせている。
 

政府は明治五年にアメリカが使用していた太陽歴(グリゴレオ暦)へ改暦した。


引用図書:『地震の日本史』寒川 旭著 中公新書 2007年